2010年12月

竹内宛メール

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ファッションのマルチチュード

BFBの修了Show

明星大学造形芸術学部

文化ファッション大学院大学

BFGU夏季合宿



Marlene Dumasハイレッドセンターの本The Idiots Are Winning.

身体/カラダ/空だ
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Mar. 31 sat. 『枝を拾い、木を使う』
■朝から外で撮影をした。カメラマンの斎藤さんに服を貸してほしいといわれての撮影だったが、まともな服を何も持っていなかった。だからとても困ったが、とりあえず昔の服やこの前のダンスの衣裳を持って行った。あちらの要望なので、僕の好みに合わせた撮影環境ではないから正直全然気乗りはしなかったけれど、できる範囲で協力できればと思って行った。
■まったく草木が生えた完全な自然の中での撮影だったので着替える場所や服を吊るしておく場所を作ろうと木や枝を触っていた。勝手気ままに曲がっている木や枝、つまり自然物を使って何かを作るときは、まずそのカタチや状態・本質を見定めてよく把握することが必要で、なかなかそれは便利に、都合の良いものは転がっていない。「あ、ない」ということに気付いて、それは当たり前のことなんだけれど、なにかすごく重要のことに思った。工夫するという心。ほんのわずかのことだが、考えるということを必要とする。自分たちの都合の良いように考えて加工することが人の優れたところだとするなら、いまの生活は都合の良い物に満たされすぎていて考える必要の機会が減っているんだなという気がした。それがよいのかわるいのかは一概にはいえないけども、一部の人たちが考えた満たされた物に囲まれて、頭や心はあまり考えなくて済むような日常に、そういう考えなくていいことが影響を及ぼしている頭や心の問題がいっぱいあるんだろう。こういうことはほんの少しでも自然と組み合えばすぐにでも思い出すことなのに、自然に日常を過ごしていると そうあるべきことを忘れてしまう。人もまた然り。少なくとも僕にはこうやって、たまに取り出してみては覗いてみることが必要だ。そんなことを想いながらあれこれやっていたら、「はまってますね」と声をかけられて恥ずかしかった。
■手伝いに来ていた方とモデルを務めていた方が二人ともとても良い方で、加えて普段出会わないような職業だったり学校に行っている方たちだった。会話も少し新鮮だった。今日の出会いはとても良いものであったように思う。
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(17:47 03/31 2007)

Mar. 30 fri. 『TEAM NACSをみる』
HONOR
■天王洲アイルへ。銀河劇場でTEAM NACSの「HONOR」を観る。大泉洋のいる北海道の劇団だ。そもそもなぜ観にいこうと思ったのかといえば、NACSはキャラメルっぽいのかジョビジョバっぽいのか。という疑問が以前おこり、「水曜どうでしょう」はおもしろいと聞く。それではどうなのかと確かめに行ってみることにした。
■キャラメルっぽくもあり、ジョビジョバっぽかった。そしてアイドルグループの一つのカタチだと思った。感動を呼び込もうとするシーンやそれに伴う効果の演出が少し似たり寄ったりで終盤麻痺してきてしまうが、冗談の部分はおもしろくて声を出して笑った。80年という歳月の中で起こる村の物語も、時間の使い方や展開の構成がとてもしっかりとしていて見ごたえがあった。そしてなによりも好感の持てる人たちだ。この5人が皆から愛されているのがよく分かったし、満足するクオリティーを持った劇団だ。大泉洋は置いておいても、特に安田顕は存在感のある役者だと思った。観にきている観客はあたたかい。そして、こんなにも応援してくれる人たちがいるこの劇団は幸せだろうなと思い、ならばやっぱり僕は、もう少し日の当たらない劇団を応援しようとも思った。
(23:04 03/30 2007)

Mar. 29 thu. 『POINT 7をみる』
POINT 7
■東青梅へ。森(大)くんと山くんが出品しているグループ展『POINT 7』を見に行く。「まゆ蔵」の向かいにある工場の廃屋を再利用して作られたギャラリーは、その空間自体がすでにとても素晴らしかった。それに、明星大学の各コースの指導員13人が集まって行っているグループ展だったので、幅広いジャンルの作品が展示されている様相はなにかトリエンナーレとかビエンナーレっぽくて良かった。
■森くんの『白昼夢』という名の作品は今回、久々の映像作品だった。林が揺れていて時おり何か葉か鳥か、或いは魚のような羽根のようなものが上昇していく。林の揺れ方は少し空気が歪んだような印象を受ける。おもしろいタッチの映像。しばらく見ていたが、とくに考えることも無く、感じることを純粋に楽しんで観れるものだった。前回の銀座から思うことだが、最近徐々に森くんは力が抜けてきていると感じる。良い意味で。へんな硬苦しさが少なくなってきた。一応付け加えておくが、難解であるということと、見ていて堅苦しいということは相対するものではない。アナログで加工する彼の制作工程を聞きながら、興味深い経過と結果の関係性に聞き入ったり、1人で作るうえでのその労苦の策に思わず笑いが込み上げた。
■山崎くんの作品『-還りゆく-』はここ一昨年から継続している灰と焼けた材木を使用した作品で大きな物だった。これに関しては相変わらずの迫力だったが、以前フラットだった作品が段々立体的になってきている点に大きな変化が見られる。荒々しさが増したように感じる。「禅」的な、東洋思想のような何かを感じさせるフラットの作品の方が僕個人としては好みだが、この少しずつ変化していく創造の過程の中で、作者の心理や背景を想像することもおもしろい。彼は、今月31日付けで木材彫刻の指導員の任期を終えることで一つの大きな岐路を迎える。いや、そんなことはおおげさなことで、もしかしたら僕が思っているよりもぜんぜん心持自体はフラットなのかもしれないが。
■その他の人の作品もどれも良かった。こんなふうに感じるのは珍しいことだけど、これはやはり、空間の素晴らしさが大きな要因を占めているのだろう。やはり添えるための空間の役割りは非常に大きなもので、かといって都内の要所にこのような空間を確保することは金銭的に非常に厳しい。加えて、土地柄の環境の良さもあるわけで。だからもっとアートというものを、郊外まで見に行くという概念が根付けばいいと思うのだが、それをするのは誰の仕事なのだろうかと少し考える。
■そのあと明星大学に行った。アパレル室、というか今はファッションデザイン室というのか、に行ったが先生は来ていなかった。指導員の松本さんがいて、しばらく喋った。今年の卒業制作展はダンスの公演と被っていて見に行けなかったので、それらの作品の写真とその解説を一つづつ丁寧にしてもらった。なにか、デニムが流行っているようで、デニムを使用した作品が多々あった。袖の無い作品の、その無いことが逆に気になってしまうような作品もあった。その他に、僕なりに気付いたいくつかの点と感想を述べて部屋を後にした。その後、森くんのいる立体造形室でクリス・カニンガムなどの映像作品を見たりした。ジャミロクワイのPVを久々に見たが、当時はあまり興味も無かったしCGだと思いとくになんとも思わなかったが、改めてよく見ると凄い。しかもこれは、アナログの手法だ。おもしろいアイディアだ。YOU TUBEだときれいさが伝わらないけど少し前のSony BraviaのCMはとても好みだった。ビル・ヴィオラの『はつゆめ』もあったが、長そうなので今度にすることにした。山崎くんは“引継ぎ”があり最後に少し顔を見せたが、また少し痩せていた。そして禿げていた。「いや、禿げてない。大悟さんの方が禿げてる」と言ってきたので少しのあいだ、禿げたの禿げてないのの泥試合になった。どちらも禿げたのだ。よく見ると森くんも白髪が凄く増えていて、そっちの方がおどろいた。みんな老けたのだ。そして、10年の歳月を感じた。
■帰り、森くんが家まで送ってくれた。その道中はうっかり僕がずっと喋りつづけてしまったが、そのやるせない内容にいちいち共感してくれるので少し気が晴れた気分になった。人は共感されるとつい、晴れた気分になりやすい。解決などなにもしていないのに。というか、解決できないこともある。いろいろあるのだ。
(23:55 03/29 2007)

Mar. 23 fri. 『スロウライダーをみる』
■三鷹芸術文化センターへ。スロウライダー「アダムスキー」を観た。ああ、そうなんだと頷く。そうかバスとは、盲点であった。いままで全然気付かなかったが、三鷹へは調布からバスで行くのが1番速い。しかもバスは、文化センターをちょうど通る。というわけで、ずいぶんと早くに到着してしまった。妙に不穏な空間に包まれながらも淡々と進んでいく舞台は、映画の方がいいのではないかという印象も受けてしまったが、良く出来た内容だった。とくに、さらりと言う最後の台詞の瞬間はぞわっとした。久々にマジで、恐怖の身震いだった。だが、うかつにも途中に寝てしまう。時間を持て余したのがいけなかった。ロビーにはカウンターが用意されていて、卓上にはワインなどが並べられていた。なにやら白と黒の装いの、身なりの中途半端なバーテンみたいな女が待ちかまえていて、やおらアルコールを促す佇まいをしていた。その空間の緩慢さについ乗せられてしまう。油断した。ビールを飲みながら本を読んで待っていたから、いざ始まってみると、睡魔はやってきた。昼下がりの2時の職場のようだ。舞台は淡々としいてる。おもしろいと思いながら眠いとも思う「おもしろ眠い」心境は新鮮だったが、それはとにかく本当に辛い戦いだった。内容は、ホラーだというがしかし、いっけん霊的(※民俗学的な)なものを題材としながらもそれを拠り所にするわけではなく、そこにある人間の恐ろしさを描いた作品だった。時世の関係はないフィクションだが、実在した民俗学者折口信夫とその弟子たちと取り巻く環境をモチーフにしたストーリーだった。

生前、その民俗学者は「怪物」とさえいわれた。
膨大な知識と神懸かり的な直感で、
「先生」はこの世界とあの世をつないでみせた…。


その奇妙なカリスマに引き寄せられ、
周囲にはいつも男たちが集まっていた。


「先生」の死後。


彼を愛し、集まっていた門弟の男たちは、
書きかけの自伝を皆で完成させ、出版する計画を立てる。
しかし「先生」についての証言は、彼らの間で大きく食い違い、
かつ「先生」の恋人だったと名乗る男の来訪によって、
はたして「先生」とは誰だったのか、「先生」にとって自分は誰だったのか?


男たちは激しい混乱に陥っていく…。

■終演後、作・演出の山中隆次郎さんと映画監督の富永昌敬さんによるアフタートークがあった。この日を選んで観に行ったのはそのせいだ。富永監督は冒頭に、これって天皇制を意識していますよねと投げかけた。たしかに、「先生」を頂点とするようでいて「自伝」への執着心へとスライドしてしまっている門弟同士のやりとりは、とくに大東亜戦争末期の裕仁天皇と陸軍、海軍における図式に似ているようでもある。天皇制を匂わせるには十分である。じっさい、折口信夫は品川の家で門弟たちとの間に於いて、その様なパラダイムを築きあげていたという。そして富永監督はマイクを顎にぴたりと付けていた。また、『極妻』やそれらに近い例を挙げ連ね、男と女にまつわる日本特有の体系についても触れつつ、ストーリー進行における入れ子の構造を読み解きながら進められていった。
■最後に富永監督は「僕、以前『パビリオン山椒魚』を作った時に、ある方から「富永君、あれは君、天皇制を意識しているんだろう。」、あの山椒魚が天皇だと、言われてですね、それ以来何かある度に「これって天皇制を意識してるんですよね?」って訊ねるようにしているんですよ。」と言った。あ、これはいいぞと思った。うむむ、おもしろい。なぜなら、僕たちは日本人であると言うだけで既になんとなく天皇制を匂わせているっぽい生き物なのだ。たとえそんなことはまったく意識してなかったとしても、なにやら意味を感じさせる微妙なものがある。言われた方も、そんなことを言われてしまっては、はて、待てよ、そういわれてみれば無意識レベルでそそのような心理が働いているのかもしれないな。脈々と続いてきた日本の文化が、日本人として、知らず知らずのうちに己にも滲み出てきてしまっているのかも知れないぞ。あながち悪くない。これがナショナリズムというやつか、と。気がきいたことをいわれた気分になって、即座に否定するのは躊躇われそうだ。うん、これはいい。こんどから何かにつけて使わなければ。

「それって天皇制を意識してるんですよね?」

あるいはその逆、「これは天皇制を意識しているんです。(キッパリ)」もいいぞ。あ、これは外国人に向かって言いたい。


(23:47 03/24 2007)

Mar. 22 thu. 『greenにみる』
green
■国立競技場へ。青砥くんに誘ってもらったgreenの2007-08AUTUMN-WINTER COLLECTIONを見に行く。こういうのになかなか自ら足を運ばない性なうえ、そうそう見れる機会もないので誘って頂けるということはありがたいかぎりです。綺麗に剃りあがった頭が遠くからでもすぐに分かる。会場に着くと入り口で青砥くんが来場者への応対をしていたので挨拶をした。が、眼鏡を掛けていた僕のことが誰だか分かっただろうか。greenはショウが始まるまでの少しの時間、立食のドリンクバーと一緒にちょっとしたフードも用意されていて、これが本当に美味しい。開始までのもてなしで観客の気分を暖める。こういうところの気配りや手を抜かない点はとても重要のことのように思う。人は少なからずや雰囲気で生きている。もちろん見にきている人々はプロだろうが、それでも目に触れる物への眼差しはその時の雰囲気で幾分も違うものだ。商売であるいじょう商品を売り切るまでがデザインだから、見せる為のプロセスとして、いかに購買意欲を煽るかというのはその一環として重要な役割を担っているし、それは必ず知覚フィードバックとして作用する。細部にまで行き渡る配慮が大切な事だが、それはただお金を使うということではなく、限られた予算の中で何処に使って何処を削るかの明確な判断、そういうことこそがそういった重要な配慮なのだろう。
■テーブルには彩り豊かなキューブ状のプチケーキが並んでいた。写真を取っておこうと思ったが、携帯がムービーモードになってしまっていて操作が分からずそのままムービーを取ってみたがかなり意味不明だった。行動自体も。そう。こういう場所に一人で来ると、どんな行動をとっても少しおかしく感じてしまう。世間一般的に言えば挙動不審という。元々このようなパーティちっくな場所の雰囲気は苦手だ。所在のなさといったらそれはもうなかった。しかし、珠のそういう違和感が愉しい。そしてそういう時は、賑々しい周りの喧騒とは裏腹に妙にクールに周りのものが目に飛び込んで来たりする。普段見ないような他人の顔の細かいディテールとか、手の仕草だとか。服の皺とか。シェフみたいな人がひっきりなしに継いでいるシャンパンを取りに行った。前はイギリスのパブリックスクールがテーマで、たしかそれにちなんだフードだった。今回はチケットに「SPEED OF SOUND」と記してあり、何だろうなとプチケーキとの関連性をあれこれ想像しながら頬張ってみた。口の中の溶けてしまった残りをシャンパンで流し込む。関連性は分からないのでまたつまんでみる。プチケーキはどれも美味しかった。ひと通りの種類を食べ終えてみてもよく分からなかった。分かったことは、ピンクのやつが1番美味しいということくらいだ。ケーキにつられて何杯か飲んだ。始まる直前に会場で古田さんに会った。ワールドの人たちと一緒なのだろうか。「ひとり?」と訊かれたので、うんと答えた。その頃には紅潮しけっこう顔は出来上がっていたはずで、不意を討たれてその顔を見られたものだからなんだかとても気恥ずかしく思えた。係の者に促され会場に移動した。ランウェイは白い長い一本道だった。幸いカメラマン達の待ち構える正面のすぐ隣りで見ることが出来き、そこはとても眺めの良いポジションだった。最前列に昨日見た人が座っていた。昨日の五反田団で見かけた見覚えのある顔の人は、やはりハイファッションの方だった。アゴラ劇場にまで観に行くなんてよっぽど芝居が好きなのだろうか。今度お会いしたときに訊いてみようと思う。
■ドラムンベースというよりは、打ち込みの高速ブレイクビーツにベースがうねる音楽に乗ってショウは始まった。前回はエイフェっクス・ツインだったからスクエアプッシャーなのかなと一瞬思ったが、しばらく聴いているとどうやら違うようだった。服は、削ぎ落とされた感じがミニマルでフューチャリスティックなというか、光沢が印象的であった。見た感じにその光沢は多分シルクで、シルクはふんだんに使われているようだったが実際に触ってみなければ分からないので、なんとも言えない。布の揺れ方はやはりレーヨンの方が好きだなとか言いながら見ていた。Tシャツに使われていた素材はレクセルなのか比重がありそうで揺れはずいぶんと綺麗だった。知り得る範囲の貧困なイメージでしかないが、出てきた頃のヘルムート・ラングのような、それをもう少しクラシカルにしたような印象を全体に受けた。流れている音楽がチョッパーの効いたコントラバスにバイオリンがうねるようなものに変わっていった。メモを取っている人をみて、自分もメモを取ろうかなと思いもしたが遠く向こうから歩いてくるのをぼんやり見ていた。しばらく見ていると、都市の在り方についてのことが頭の中に浮かんだ。ミニマルで機能的なデザイン。無駄な物が省かれていて、在るのはシャープなシルエット。それは「洗練された都市」ではなくて、例えば何処の駅に降りても大概の同じ物が揃っているというような「整理された都市」。何かの本で読んだ「ファスト風土」という言葉を思い出した。
■色々なものを見てきた過程でひどく漠然とだが、大儀の意味で服を生み出すそれは「町」の構造に由来するのではないかと感じはじめていた。例えば近年生まれたニュータウンだとか、そのような集合体の構造や在り方が服に対して何よりも大きな影響を及ぼしていて、ファッションに於いても「ストリート」とかそういう捉え方よりももっともっと大きな意味でそれは「タウン」の方が適していると思う。だから、事象を結果として検証するものではなく、未来を予測する為に検証すべき題材なのではないかと。社会学とはまた別のこととして「町作り」について調べることが次の、もしくは新しいファッションを発見する手立てとして何かあるのではないかと想うと同時に、そこに少なからずの興味を抱いていた。ショウを見ていてモヤモヤしていたその様なことが糸が解けるような感覚で思い起こされた。
■ショウはフィナーレを迎え、奥から順に拍手が連なっていった。アメリカ軍のゴアテックスパーカとG3をコートにした服なども印象に残ったが、きらきらした生地の光沢感と機能的な面の印象が強く残るコレクションだった。アフターパーティー会場はこちらですよという声を背にしながら会場を後にした。終わったら六本木の美術館に寄って帰ろうと思っていたが、方向転換をして急いで本屋に向かった。もう閉まってしまいそうな時間だった。あの本はなんだったけか、と電車の中で必死で思い出そうとしたが思い出せなかった。本屋について棚の疑わしいところを片っ端から周ると、そのタイトルにピンときた。「東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム」を手に取りパラパラと捲った。これだ。


東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム 東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム
東 浩紀、北田 暁大 他 (2007/01)
日本放送出版協会

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■とても身近なところから、リベラリズムやポストモダニズムやナショナリズムや格差や郊外や資本について語られている本だ。いまや人格さえも形成する都市構造の動向が、服にも多大な影響を与えているのではないか。自然との共生を捨てて都市という構造を成り立たせる時代に育っている私たちはたしかに、信じられないくらい便利な世の中で暮らしている。物理的には。綺麗に整備された街。社会工学という観点で作られていく都市の構造のその先は、果たして本当に社会工学の効果として見合っているのだろうか。人の為に、都合に合ったものへと作られていくのは、それは私たちにとって本当に都合のよい物なのだろうか。いや、なにがやりたいんだ俺はと思いながら立ち読みしていると、もう店を閉めますからと店員に促されたのでレジに向かう。思ったより本は安かったので安心した。いつだって発見と勉強の可能性や新たな手掛かりはある。でも行ってみなければ何にも出会わない。自分の先のことについても考えさせられる。青砥くん、本当にありがとう。そしてお疲れ様でした。そして、渋谷の葱屋さんに行こう。
■新宿で人を待つ暇つぶしに、本を読みながらあの異常な行列のドーナツ屋に並んでみた。


(05:51 03/23 2007)

Mar. 21 wed. 『五反田団をみる』

忘れな草という草があって、
私を忘れないでほしいという草だときいた、
だけど忘れてもいいよと思うときもあって、
むしろ忘れてくれた方が気が楽だ、
と思ってるときもある。私のことなんか忘れてくれた方が
気が楽だと、そう思いながら
もう涙も出ない人の、ありふれた不幸の、ありふれた幸福の物語。

■駒場東大前へ。五反田団「いやむしろわすれて草」を観た。演出の都合上で空調が切られて、狭い空間はじりじりとした。すぐ前に座っている人にどうも見覚えがあるのだが、確信が無い。しかもこんなところに来るはずも無かろうと、声をかけるのは躊躇われた。舞台は四姉妹の風景を描いた物語。知っていれば知っていたで、知らなければ知らないで、すべてではないにせよそこにある居心地のよさと僅かな距離は、ときに恥ずかしさであったり、或いは居心地の悪さであったりもする。あたりまえの毎日は、でもいつだって不在の、別れの気配は漂っている。それはたまに津波のようで、かなわない時だってある。というような内容か。
■昔はそんなことなかったのだが、ここのところしばらくは少しばかり前の時代の本を読むにつけ、何か読みにくさを覚えていた。方丈記くらいの古さだとか南方熊楠みたいな読み辛さだとかそういうのではなくもっと近代の物だが、逆にいえば今のものの方が読みやすく感じているということでもある。これは文体とか言葉の選び方に由来するのだろうかと思っていたが違うかもしれない。心の持ち方、時勢に於いて心持ちは変わる。そのエネルギーの移ろい方、もしくは移ろわない、そういう描写が同時代性にもつ共感としてあるからなのかもしれない。言葉や語彙の表現や錯誤性よりも、心の模様に由来している。そうであるならば、共感できてしまう今の心理状態が嫌だ、と思う。前はそんなこと欠片もなかった。
■女性の役者の演技に少しばかり疑問を感じたり、時おり入る笑いにはあまり好感が持てなかったけれど全体としてはよく出来たストーリーで、最後、すこしだけ呼吸をするのをつい忘れた。兄弟の側面がよく出ている物語だ。見ている人の兄弟の属性できっとちがった風景が見えるんだろう。四姉妹ではないが、シャンプーハットの黒田さんの役はとても効果的に全体を締めていたと思う。ついでに、僕はああいう人が羨ましいとも思っている。好きなことに笑顔を出せる人。あと最後にもうひとつ欲をいえば、もう少し肌ざわりを感じるトーンで進んでいってくれればな、と思うのは、上の子目線だろうか。よく分からんが。諸行無常だなんてずっと前から知っている。帰り道にびゅっと梅干しの種を飛ばしたらコンコンコロと転がりながらすうっと闇に消えていった。そう思うことはエゴなのかもしれないが、忘れられてしまうことよりも忘れてしまうことの方が哀しいな。と思った。

(01:47 03/22 2007)

Mar. 20 tue. 『イギリスよりの使者』
使者
■イギリスから荷物が届いた。福岡くんからだ。今年の彼の作品のアイディアと手掛かりが詰まったTシャツと手紙が入っていて、そこには彼らしい言葉が綴ってあった。見知らぬ土地で日々、目の前にある試練と格闘しながら自分の進む道を必死で探る奮闘振りが伺える。困難なことは多々あるだろうけれど、だけど変わりにそれを補う以上のアイディアが研ぎ澄まされるだろう。苦しむことは必要で、でもそういうときにいろいろ考えて、自分の幅を広げていくことが今は大事だ。というかチャンスだろう。そういう必要性を悶々と過ごしている自分にも教えてくれる。この荷物にはTシャツと手紙と他に、エネルギーが入っていた。ありがとう。彼は信念を持っているからそのビジョンは近い将来現実のものとなってきっと僕らの目の前に触れる物になる筈だ。ITS6に出すというポートフォリオも見てみたい。彼の作るポートフォリオは僕にとって足りない決定的な部分を気付かせてくれるのでとても参考になる。頑張って。小島さんと高田くんにも久しくメールしてなかったけれど、きっとエキサイティングな物を作ってるんだろうな。楽しみ。
■しばらく作業と読書で引きこもっていた。といっても外には出ていたけれど。精神的に引きこもっていて、スピード、スピード。作業に専念するべくあまり何も考えないように、日記も書かないようにしていた。何も考えないことは気が楽だ。そして、ほんの少しだけだけど何も考えないようにしていて感じたことといえば、「考える」ということはなんと幸せなことであろうか、ということだった。明日は五反田団、明後日はgreen(0708AW)、明々後日はスロウライダーを観に行く。いろいろな物に触れながら今はやっぱり、いちいちにつけて考えることが自分にとっての環境作りだ。それが居心地悪いものであっても、そういった居心地の悪さが今は必要なんだと思う。
■中学生の頃に買った「セックス・ピストルズ伝説」を徐に捲り返してみた。久しぶりに見ても解散までの下りの有り様は無惨なものだが、とにかく彼らはあの短期間において沢山のステージに立っていた。
(00:49 03/21 2007)

Mar. 16 fri. 『アディダス』
殿堂入り
■高校1年生の夏ごろ、スーパースターのプロモデル(写真)を有り金はたいて買った。店の棚の、上の方から俺を釘付けにして止まないそれは、いわゆる金ベロのヴィンテージスニーカーというやつで、そのとき自分の穿いていた靴の20倍くらいの値段した。殆んど衝動買いだった。
履き倒した。偏愛しすぎて変色した。「ドブみたい(写真)」とか言われた。おとといから急激に、物凄い放物線を描きながらアディダスブームが到来している。自分の中で。ジャバーか、モンテカルロか、プロモデルかアメリカーナが欲しいと思っている。しかし金が無い。でも復刻は嫌いだ。ニューバランスに浮気した時もあった。今はドイツ軍の練習靴ばっかりだ。しかし。やっぱり俺はアディダスが好きだ。



■で、ポツドール「激情」のドラマツルギーについて、だらだら書くと長くなってしまうので至って簡素に纏めてみる。

・困難な状況から結局脱出しないで順応してしまおうとする人間の性
・無自覚に他人を傷付けるという人間の性

主にこの2点だろうか。あとは何時に無く全体的な演出が演劇的だったことがこの2つを劇的に見せるいつもとは違う効果になっていた。やはり大箱での公演はこのようなシフトチェンジは仕方がないのかもしれない。逆にフレキシブルであるとも捉えられる。ポツドールの公演では終演後に拍手をしないことが恒例になっている。前回「恋の渦」では拍手をしたい気持ちにさせられたが、今回「激情」は拍手をさせない凄みがあった。あとは「終わりよければ全て由」という構造もあったと思う。ラストの悲惨さはひとえに、借金取りが菅原(主人公)を鶏姦するときのあの下世話な描写だろう。あれは酷かった。これに限る。
(04:14 03/16 2007)

Mar. 14 wed. 『音楽のはなしか』
■日曜に観たポツドール「激情」の、そのドラマツルギーについて考えてみた。久々に壮絶なラスト。「ナイト倶楽部」を観た時以来の後味の悪さが最高に“ポツドール”だった。今回は本多だし再演だしということで気軽に「おもしろいよ」という言い方で初見の人に薦めてしまった。しかしその安直な言い回しは、今回は少し間違いだった。そう思えば、最近のポツドールはかなりポップ路線になっていたんだな。それでストーリーを思い出そうと気分を盛り上げる為に岡村ちゃんの「SEX」を借りてきて聴いたりしながら考え直してみた。そして日記に書こうと思っていたが書き出したら纏まらなくなってしまった。なので、家に「激情」の戯曲があったのでもう一度読んでみてから纏めることにする。それにしても前公演の「恋の渦」をテレビで観たらあの凄かった空気が消えていた。やはり舞台は劇場で観ないと全然ちがう物だ。次回作が「人間失格」というタイトルだった。年末にかけてから自分の中でちょうど太宰ブームがきていたのでよけいに楽しみだ。
■きのう、作業しながら久々にラジオをつけていた。そうしたら、J-WAVEから口ロロ(クチロロ)の曲が流れてきた。「ゴールデンキング」(?たぶん)という曲。そういえばちょっと前にいとうせいこうのブログに「口ロロ」って書いてあって「すごい。書いてある!」と思っていたらJ-WAVEでも流れるようになってたんだ。すごいな。三浦くん、めっきり会ってないけどあいかわらず元気そうな歌声だったから元気なんだろうな。泥酔して高円寺の路上でぶっ倒れてた時「さむいさむい」と言いいながらごろごろごろごろしていたらズボン買ってきて穿かせてくれたな。なぜ“下”だったのかは謎だけど。そういえば最近になって僕はポップを聴けるようになったし、なつかしくなって昔買ったデビューアルバムを聴いてみようかと思ったけれど部屋中探しても出てこなかった。ほかの人たちも頑張ってほしい。応援してます。
■それからしばらくして、コトリンゴという人が出ていてその人の曲が流れてきた。さいきん大学生の頃に作った曲が出てきた。かなりのレア音源だ。でもカセットテープなうえに多重録音だったからすご~く音が悪いんだけど、モノはなかなか悪くないからもう一回リテイクを録りたい気持ちもある。手前味噌ですが。コトリンゴという人の曲が流れているのを聴いていたらアレンジの良いアイディアが浮かんだので今度ヨシダくんに相談してみよう。
■そして最近は、昔聴いた物を引っ張り出してきてみていたら羅針盤が再発見だった。昔は思い出波止場の方が好きで、羅針盤は買ってもあんまりきちんと聴いていなかった。今きちんと聴くと良い。最近のも良いけど昔のもたまらない。最初からがつんとは来ないんだけど聴くほどに嵌る。いい案配だ。今時分の曲は飽きてしまうものが多い気がするけれど羅針盤はどれもこれも漏れなく飽きない。素晴らしいです。お薦めは昔のだったら「らご」、最近のだったら「いるみ」。他のも全部良いんだけど。
■「生活音のような物」がわりと好きだという方に、「あ、ラ・モンテ・ヤングが良いかもしれない」(※ヤングの生い立ちを思い出して)と迂闊に薦めたはいいが「ウェルチューンド・ピアノ」を聴き直してみたらちょっと違うかもしれない感が充満していた。薦め下手だという感も充満していた。ボアダムズの「スーパールーツ6」とかの方がまだ全然近いかも。
■レコードを半年以上買ってない。買いに行きたいけどお金がな。買いに行ってしまうと無駄に買ってしまうのがレコードの危険だ。危険だ。

(21:52 03/14 2007)

Mar. 09 fri. 『吾妻橋ダンスクロッシング』
身体表現サークル
■浅草に行く。アサヒアートスクエアで吾妻橋ダンスクロッシングを観た。おもしろかった。初めて見る機会になった身体表現サークルは特におもしろかった。褌姿の男たちが繰り広げるパフォーマンス。というよりかは運動か。顔色一つ変えずに(※でも時たま、しんどそう。)終始マジメに取り組んでいるその姿勢は、と言って決して、褌から想像するような“漢”と呼べるようなシロモノではない。一生懸命やっているのだが、その身体性の限界点があまりにも低いのだ。ふざけているわけでもないその動作はまさに真剣に子供がじゃれあっているようなそれなのである。そして一見無意味なそれらは、連動することによりじつにふざけた動きを生み出す。『単体では無意味な動きが、連続することによって意味を成す。有りそうで無かった、無さそうだったけど結局出てきたユニット。』と言う通り、受動態の関係性から誘発する連動性の馬鹿馬鹿しさに思わず吹いてしまう“失笑”が絶えなかった。昨年11月に観た演舞教会の舞台で伊藤キムが付けていた方法論の振り付けのことを思い出した。多分そのとき伊藤さんが目指していた方向性のその先にあった1つはきっとこのようなカタチなんだろうな思った。「吾妻橋~」の主宰・桜井圭介さんの言うところの“コドモ身体”というか“ダメな身体”という言葉が丁度ピタリと当て嵌まるようなそんな風体だった。えてして“わざとらしく”なってしまいそうな表現を、そうは見せない構成力とその身体性の低さが素晴らしいなと思った。彼らは「横浜トリエンナーレ2005」にも出ていたそうだ。いやあ、おもしろい!言葉でいくら説明しても伝わらないので機会があれば是非観てみてください。
■あとは、Off Nibroll(ニブロールの別プロジェクト)とKATHYも良かった。Off Nibrollの情緒性。女の子が二人で葛藤するように動作をする。内包する衝動というか。ああいう動きに僕は弱いのだ。先週のNibrollの公演「No Direction」は用があって行けなかったけど、観ておけばよかったと少し後悔する。KATHYは、無作為に目星をつけた観客に例のスタイルを施し舞台上に引きづり上げてKATHYを次々と増やしていく。その様は、小さな頃遊園地でショッカーに連れて行かれるときのあの高揚感に似たものがあった。不思議なもので連れて行かれたお客さんは皆がきちんとKATHYと同じ踊りを踊るのだ。もちろん誰でも踊れるような踊りだが、誰も拒まない。お客さんの踊りも観ていておもしろかった。そのほか主な参加は以下の通りだった。

▼出演
off Nibroll、KATHY、身体表現サークル、ボクデス&チーム眼鏡
ほうほう堂×チェルフィッチュ、康本雅子

▼スペシャルゲスト
宇治野宗輝&ザ・ローテーターズ、kiiiiiii(※急遽キャンセル)

▼同時開催

「スーパー☆ラット」展
Chim↑ Pom(チン↑ポム)
「スーパー☆ラット」展





■先日ダンスの衣裳をやったこともあり、自然と観ているあいだ身体表現における衣裳のことも考えていた。それで思ったのだが、僕はやはり“服”が作りたいわけで、それは社会性としての“服”という意味だが、この前の衣裳を作るという行為の中でずっとどこか腑に落ちなかった点が、日常性から遠くなってしまうような気がするのはどうだろうかということだった。物理的な意味ではなくて。見た目の問題ではなくて上手くいえないがリアリティの欠如というか。一見日常的には着れないような服でも、例えばマース・カニングハムがコムデギャルソンの服を着て踊った時のようにきちんとした連動性があれば、そこにはリアリティがありつまりそれは「服」であった。逆に言えば僕は前回そういう点において致命的な失敗があったかなと感じてもいるわけだ。方法論はきちんと有ったにせよ、結果としてイメージ的な物が出来上がってしまったというところ。俗にいう「衣裳」っぽくなってしまったところ。そのような点だ。
視覚的にせよ肉体的にせよ意味的にせよ、身体表現に対して影響を与える、或いは連動性を引き起こすようなモノでなければ、効果がないし面白みもないと感じた。そしてそこに社会性としての“服”という意味が成り立つのではないか。そういう点においては、こういう場でこそ「ごく普通の日常着」が持つ役割には大きな意味(※作用)があると思う。
■今まで見聞きしてきた他の様々な事柄も踏まえて分かったことが、例えばきょうの身体表現サークルもそうだが、僕はエネルギーの伝達にとても興味があるということだ。受身の時に外側の力が加わったことによって生じる反応だとか連動性に強く興味を感じている。服に於いても同様のことが言える。だから、力ずくで形作ろうとする物はあまり好きではない。僕がマルタン・マルジェラを好きな理由はここにあろうかと思う。帰り道の吾妻橋を渡りながらブツブツと、そんなことを考えながら家路についたのでした。
■帰りの電車の中で谷崎潤一郎の「痴人の血」を読みながら帰る。なんだ、とは思いながらも主人公同様に“ナオミ”の奔放さに溺れていく。最終的に、男は馬鹿だ。
(03:25 03/10 2007)

Mar. 07 wed. 『いちばん愚かなこと』
■そして気付いたことといえば。「なんて自分は浅はかなんだ」と想うこと自体がそもそも「1番浅はか」なことだ、ということ。その愚かさ。それは傲慢以外の何ものでもない。
■いまの自分を塞いでいる隘路をどうにかして打開する手立てを考えなければいけないと思う。これも愚かなことなのだろうか。何かに気付いたと思ったらまた呑み込まれて、その繰り返しだ。
(23:43 03/07 2007)

Mar. 06 tue. 『クライシスマーチ』
もはや「怨念」だ
■緊張すると重く見える。暗くみえる。挙動不審にみえる。声の抑揚もトーンもない。与える印象がいけない。もう全体的に気持ち悪い感じにしか見えない。いや、緊張していなくてもそもそも駄目なのだ。改善しなければならない。自分らしさなどはいらない。そんなものは昔から持ち合わせていないのだ。縋るものは何も無い。今年は面接について本気で考えていかなければならない。少し練習してみたが、ほんとに少しだがそれでもかなり駄目だった。なんだろう、あの言い回しの駄目さ加減は。回りくどさよ。こうなったら週1で研究を重ねていくしかないだろう。質問回答の立案作成も進めていかなければ。まあいいじゃん、などと言っていられないのだ。ほんとうに週1でも間に合わないかもしれないくらい駄目な感じだ。快活さが肝要だ。笑顔の練習も必修だ。準備してもしなくても変わらないのだったら、準備しておいた方がいいだろう。まずはこんな感じで書いておいて声だしだ。何か良いアドバイスがあれば求みたい。髪を切る予定は無いが。
■なにがクライシスかといえば「食」だ。色々あって11月から4~5kgは痩せた。そんなに色々もなかったんだけど。故意に落としたわけじゃないのでまあ棚ボタといえば棚ボタだ。ただ腕時計がくるくる腕を回ってしまうのは、少し哀しい。しかし、昨日今日と馬鹿みたいに食べてしまった。たとえば、夕飯連続して2回とかね。気持ち悪いのにも関わらず食べてしまった。突発的なこの勢いはイヤな予感がする。「食い気」が復活しそうな気配を感じて止まない。よってこれでは如何と危惧したわけで、だから自分の心の中で「クライシスマーチ」(3月の危機)を発令することにした。ここに書いておくだけだけど。これはヘンダーソン飛行場での海兵隊第1海兵師団と第三十五旅団司令部及び歩兵第百二十四連隊基幹の攻防「クライシスセプテンバー」に由来する。響きだけだけど。そして今が持ち服に対して一番中途半端なポジションなので、今後痩せるか太るかしないと都合が悪い。どちらに転ぶんだろうか。うーん、自分の都合か服の都合か。しょうもない理由だ。
■「自分は無知」だと言うことすら恥ずかしいくらい無知な自分に気付いたとき、いったい人はどうしているのだろうか。最近その様なことの連続である。風邪の療養中に、先日買った「失敗の本質」を読んでいる。ノモンハン事件、ミッドウェー海戦、ガダルカナルの戦い、インパール作戦について読み終えたのだが、読めば読むほど知らないことが出てくる。或いは知っていると思っていたことへの浅はかさを知る。背景がはっきりと見えてこないのでもう少し詳しいことを知る為に他の資料にも目を通しているのだが、これがまた凄いことになっている。特に「インパールの戦い」は不味い。1つづつ書いていきたいところだが、しかしまだ課題が全部終わっていないので、こんなことをしている場合ではない。本当のところ資料なんか読んでいる場合でもないのだ。いや、しかしいままで本当にうろ覚えだったんだなと思う。戒めても時すでに遅し。いまや大東亜戦争に俄然興味が湧いてしまっている。悪い癖だ。優先順位をきちんと見定めなくては。そういうところが一番浅はかなのかもしれない。
■駄目なことばかり書いていたら「クライシス行進曲(マーチ)」になってしまった。ああ。
(23:03 03/06 2007)

Mar. 03 sat. 『第2波』
■しばらく携帯電話が止まっていた。風邪が治り、また新しい風邪が到来したようだ。今度はインフルエンザだ。体調ははまた悪化の一途を辿りだした。昨日はつい油断してしまい、治ってないのに下北沢で町田くんと松本くんと飲んでいたらいつのまにか朝になった。またやってしまった。明け方に吐きそうだった具合の悪さは今にして思えば「酔い」というよりは「体調の問題」だったんだろう。でも愉しかった。率直にいま何を作りたいか、今後をどのように考えているのか、また、していくべきかなど、色々な話が出来たことがとても良かった。3人とも満足できない悩み好きだ。ああでもないこうでもないと。町田くんはそこまででもないかもしれないが、それでも悶々としている。松本くんは相当に悶々としている。そういえばイギリスにいる福岡くんもなかなか悶々としてるみたいだったな。それぞれに悩んでいるのだ。しかしそういう悩みは聞いていてたのしい。もう、とことん悩んで試行錯誤するしかないと思う。悶々としながら物を作ることは、素晴らしいことだ。
■最近、理想を語る機会は減っていると思う。馬鹿なんじゃないか、と思われるかもしれない。が、やはり理想は語らなければならないと思う。それは「理想ばかり」ということではない。発さなければそれは永遠に絵空事のままでしかないものだ。理想は具体的に口にする事で、現実的な算段への指針となる。口に出すことで、途端に現実と擦り合わせていかなければならない事柄となる。だからこそ、自分の中で考えてばかりいるのではなくて人と話し合うことに意義があるのだろうと思う。そんな中で話していて、自分はもう少し、周りに対する責任感を持たなければならないなと感じた。なんというか、自分自信の責任というのももちろんそうだけれども、「僕がいま作っているような物を作る」ということへの、それを見せる人たちへの責任だ。少なからず誰かへ何かを刺激するような物を作るという行為は、刺激しただけの責任も併せ持たなくてはいけないのだとつくづく思った。そういう意味でも僕はいまの感じでは現世離れしていると思ったし、このままではいよいよ世捨て人になってしまう。

失敗の本質
■今日は、吉祥寺でユザワヤによったあと、かねてから気になっていた「失敗の本質」という本を買って帰った。考えてみれば失敗ばかりの僕の人生において、失敗はさっさと忘れていしまいたい物でしかないが、とはいってもやはり失敗しないためには失敗から学ぶほかはない。そして出来れば、失敗は繰り返したくないものである。だからやっぱり失敗をきちんと勉強しないとね、ってこれは少し違うかもしれないが。もっともこの本は副題に(日本軍の組織論的研究)とあるように、日本軍が当時なぜ負けてしまったのか、ノモンハンミッドウェーガダルカナルインパールレイテ沖縄の戦いをケーススタディとして、環境、戦略、資源、組織構造、管理システム、組織行動、組織学習の枠組に分析の焦点を置いて書かれたもので、単純になぜ負けたかを論理的に明快に解明する、という類いのものだ。 帰りの電車の中で読み始めるが、これまた前置きがやたらと長い。鼻水も止まらないし、だんだんつらくなってくる。やっと本編に入ると、さっそくノモンハン事件の下りからいよいよ頭が痛くなってきた。本を閉じる。しばらくするとまた読みたくなってきて開く。そしてまた頭が痛くなる。家に帰ってからも、テレビなどは観たくないので開いて閉じての繰り返しだ。体調が悪いときにこういう本は読むものではないのかもしれないが、おもしろい、という言葉が適当なのかはよく分からないけどとても興味深い内容なのでいま読みたい。と同時に、そう思っているときに読まないとページを捲る機会を失ってしまいそうな予感も多分に秘めている本でもある。
■そういえば、経堂の「はるばるてい」で香麺を食べた。とても美味しかった。スープの無いいわゆる“油らーめん”の類いだが、最後まで美味しく、今まで食べた中で1番だった。店のオヤジさんも流暢な雰囲気で良い。他の人が頼んでいた大根のサラダなども食べたくなったが、気付いた時にはもう時間がなかった。こんど行ったら頼もうと思う。
(20:32 03/03 2007)

Mar. 01 thu. 『無邪気な入植者たちの静かな傲慢』
■3月1日は韓国では植民地時代に起きた3.1独立運動(万歳運動)の日だ。ちょうど先日、独立運動の際に朝鮮軍司令官だった宇都宮(太郎)大将の15年分の日記など大量の資料が見つかったことが新聞にも載っていた。いままで全く認識していなかったものが、いちど認識すると、つぎつぎ目に付く。きっといままでも変わらなくて鈍感に過ごして来ただけで、自分の無知さにはほとほと飽きれるばかりだ。それにしてもこの植民地政策がまたなんとも、よくよく考えてみれば相当に無茶だと思われるシロモノだ。植民地支配といっても「併合」という形のとんでもない発想は、18世紀までのスペイン、ポルトガルを中心とした「収奪型」でもなく、その後イギリス、フランスを中心にした「殖産型」でもなく、「同化型」という日本独特の、他に類型を見ない植民地支配の在り方だった。あえて挙げるとするならば、イギリスにおけるアイルランド統治のそれが一番近い形だそうだが、未だに解決していない問題などの現状を見るからに、同化型の植民地政策がもたらすその禍根も少しは垣間見えるのだろうか。しかし、ニュースで見た「3.1節暴走」というもの。あれは一体なんなんだ。
(18:19 03/01 2007)

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