2010年12月

竹内宛メール

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ファッションのマルチチュード

BFBの修了Show

明星大学造形芸術学部

文化ファッション大学院大学

BFGU夏季合宿



Marlene Dumasハイレッドセンターの本The Idiots Are Winning.

身体/カラダ/空だ
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Jul. 31 tue. 『作業は続く 』
もくもくと作業する貞子たち
■とりあえずきょうはオンワード樫山に新人デザイナーファッション大賞2007の作品を提出してきた。予定時間を2時間ほど過ぎてしまい電話口では注意されたが提出会場に行ってみるとぜんぜん怒られなくて、むしろ「お待たせしてすみませんね」などと逆にあやまられてなんだかよく分からなかった。わすれものに気付いて取りに戻ったのにさらにわすれている物があった。しょうもない。例によって今回も提出前に写真に撮ることも忘れてしまった。あとでいつも撮っておけば良かったなとおもうのにそれを毎度のごとく忘れてしまう。忘れるだけが人生か。あとこの作品のテーマについても日記でぜんぜん触れてなかったな。『アーミーとテイラー』というテーマだったのだけれど、これについてはこんど詳しく書いておこう。今回はとんでもなく日常着だ。リアルクローズ。本当にいつも作っている物と違う、というか真逆の物だと思う。それで、「やっぱこういうの(普通の服)は嫌だな。」と思うわけでもなく、むしろおもしろかった。素材とか仕立てとか仕様とか。こういうのはこういうので好きなんだろうと思う。でも作っていて感じたことは本当に普段自分がいかに違うものを作っているかという差だったし、それは言ってしまえば野球とサッカーくらいの違いがあった。でも、そのどちらも作れる環境があるということは贅沢というか幸せなことだなとつくづく感じた。
■それでぜんぜん関係ないんだけど、ああいう提出の場に行くと他にも提出者が来てるわけじゃないですか。そのときに自分よりも喧嘩が強そうな奴とかとても生意気そうな奴がいるとやるならいつでもやってやるぞという意味の臨戦体制に心が入ってしまうのだ。舌打ちなどが聴こえようものなら聞き逃さないくらいに神経が張る。ひどく意味不明に。そういう人たち以外に関してはそんなことはぜんぜん思わないし、地方から来ている人たちにはできるだけ協力してあげたいと思うのだが。なぜか喧嘩上等と思ってしまう輩も少なからずいて、今日もそういう気分だった。とても大人げないとは思うけれど。なんだかわけの分からないアドレナリンが出る。
■で、明日は装苑賞の作品提出日でそれが終わったらブックレットが10日に提出だ。その前に課題もある。ねむい。とにかくねむい。だけどまだ提出日は続くのだ。
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(22:56 07/31 2007)

Jul. 28 sat. 『夏か』
■「べつにとくに用はないけどいまフジロックにいるんだよ」とK磯が電話してきた。おいおい、それはすごく夏の気分じゃないか。そうか。しらなかったけれど世間はもう夏とか夏休みの雰囲気まっさかりなんだね。なんだか季節感をつかめないな。まあつかんだところで全然あれなんだけれど。
■N里さんからも今週末に「茅ヶ崎で夏祭りの集いをやるけれど」と誘いのメールが来た。いきたい。この集いはとてもおもしろくて去年は桜新町でホームパーティだったのだけれど、そもそも僕は浅いツテで行っているために知らない人が多い。それで大抵の人が僕よりも歳上で職種もいろいろな人がいる。30~40人くらいはいたんじゃなかろうか。これは貴重な空間でもある。そういえば去年は屋上でディジリドゥを教えてもらいながら夜中に吹きまくってたらだんだん上達してきて、上達ついでに警察が来てしまったな。あと東京大学大学院でナノテクノロジーを研究している千駄木在住のエリックとかいう外人がやたらと日本語が上手で、細かいニュアンスも伝わるような日本語の流暢な外人はなかなか出会う機会がなかったのでついうっかりいろいろ質問しまくってしまった。
■そんな中で僕は以前レーベンスボルン計画についての本かなにかで「日本人も古くはアーリア人種の流れを汲む」みたいなことが書いてあって。エリックはたしかフィンランドだったかスェーデンだったかの系列のアメリカ人でちょっとそのあたりはどっちだったか失念してしまったけれどとにかくエリックも、っていうかエリックはもろにアーリア人種だったわけでだからその辺のことが気になって特にいろいろと質問してみた。そしたらエリックもアメリカにいるとき向こうの大学の多国籍な人々が住んでいる寮の話で日本人とそっちの人(フィンランドだったかスェーデン)の行動とか感覚が似ているというのを寮母に聞いたことがあるみたいな話になって「なに!やっぱりそうか!」とこれに俄然僕は食いついたわですよ。それでなんかその辺の話をずっとしていて、結局「じゃあ俺たち同じ人種じゃねえか!」っていうことで抱擁した記憶があります。でもいま思い返せば、いきさつの詳しい内容は忘れてしまったし僕はこのとき酩酊状態だったし、なによりもエリックの北欧まる出しのヨーロピアンなその風貌と僕の大和魂まる出しなその風貌とでは、この成立した検証結果も傍からみれば何の説得力もないただの酔っぱらい2人でしかなかったんだろうな。朝になって気がついたらなぜか駅のベンチにいたし。いやあ、でもとても愉快だった。
■思い出に浸っている場合ではなかった。とてもいきたいと思うけど粛々とやらなければならないことがある。人に期待されてやらなきゃいけないことがあるのはしあわせなことだ。ボンヤリとしてる場合ではない、頑張らなければ、頑張らなければ。
(22:04 07/28 2007)

Jul. 27 fri. 『日本で最初にホームページを作った人 』
■きのうの話のつづきだけど、ブックレットにはそれぞれに5人の各作家のブックレットが付くらしくて、イラストレーターの方・彫刻家の方・写真家の方・日本で最初にホームページを作った方・僕、という感じらしい。このためになにか新しい作品を作ろうかなと思っていたけれど、打合せをすると日程的にはもうぜんぜん猶予がなかったし「服であること」が条件であったので僕の場合は過去の作品からのブックレットになる予定だ。服じゃないものを作ろうかなとも思っていたけれどそこは釘をさされてしまった。
■それで僕はこれを聞いたときに聞き捨てならなかったのが『日本で最初にホームページを作った方』という人の存在だった。なにせ最初の人なのだ。しかもホームページの。だいたい「日本で最初」なんてそうそういないよ。というか各々に1人か。あれ、微妙か。でもそのふれこみのネーミング自体がすでにものすごいパンチ力だ。いったいそれは誰なんだともう気になってしょうがないので調べてみると森田洋平(理学博士)さんという方だった。で、これが日本で最初のホームページだそうだ。物理学の研究の過程で必要になったらしい。森田さんの場合は高柳監督との対談形式なるらしい。それのブックレット。たぶん高柳さんも理学部出身なのでその辺のつながりなのだろうか。ともかく、とても興味深い人選だしコマーシャル的にも良いアイディアだなと思った。
■そんな中に己がいてしまっていいのだろうかとう不安は否めないが、高柳さんは一応僕の作品を気に入ってくれて選んでくれたようだし直接話してみて通じ合う部分というか共感できる部分というのは少なからずあった。なによりも僕のことを紹介してくれた新川の為にも頑張らなければな。ちなみに新川は美術関連の編集の仕事をしていて、今回の高柳さんの上映では広報的なことをしているらしい。だからなるべく僕もおもしろいものが提案出来るように考えなければなと思うんだけど、なにせ過去の作品だからな。あと、ほかの分野の人たちの目に触れる絶好の機会であるわけだからこれはチャンスだと思ってやろうと思う。日程は強行だけど。
■それでこの『高柳洋介 10×5th 映画』UPLINKにて8/18(土)~8/30(金)まで連日(11:00/21:00) 上映されるので是非ともご覧になってみてください。すごく短い予告編があるので貼っておきます。冒頭のシーンは監督が初めてカメラを回した東大の駒場寮が陥落したドキュメント『駒寮陥落』の一部らしい。これもとても観てみたいなと思う。いずれ各作品の簡単な感想も書こうと思う。

■久々にUPLINKのページをみたら『会田誠&山下敦弘 特集』とかばたばたしていてみはぐっていた『14歳』とかやるので観に行きたいな。会田誠に関しては、先日まで上野で開催されていた「アートで候。会田誠 山口晃 展」を見に行った5人の方から「会田誠に似ている」というようなことをいわれて戸惑っている。べつにみんな揃って言われたわけではなくて関係ないときに言われたから余計に。どういうわけだかよく分からないが、そんなに言われるとすごく気になってしまう。いずれきちんと観察しなければ。『根本敬の映像夜間中学・東京校』は今日だったのか、残念。まあ金ないから行かれないか。

(23:51 07/27 2007)

Jul. 26 thur. 『リンゴと虫』
■ぜんぜんできていない。毎日更新なんてとうてい無理だったな。それでもなんとか意気込みだけは見せなければ。誰にだかは全くもって分からないけれど、まあとにかく意気込みさえも失くしてしまっては僕はもうただの髪の長いおじさんでしかないだろう。
■それでとにかくお金がない。貧困だ。究極的になくなってきているのでこの事態をどうにかしなければならないから何か考えないといけないんだけれど。何か良いアイディアを考えなければ。しかし時間も無いのだ。とりあえず、とうぶん僕をなににも誘わないで欲しいと思う。うーん。でもやっぱり誘って欲しいな。それはそれでさみしいじゃないか。だからもし断わってもそのへんを汲み取って欲しいんだけどわがままかこれ。あまり関係ないけれどそのうえ最近よくコケる。よく転倒するのだ。しかも不注意なのでそのどれもがことごとくダサい。せめて骨折をしないように心掛けようと思う。
「BREAK OFF (2006)」
■火曜日の話になるが昼からUPLINKへ行った。『高柳洋介 10×5th 映画』の上映試写会を観にいった。この映画は短編の5作品からのオムニバスになっている。監督の高柳さんは東京大学理学部生物学科人類科を卒業後にニューヨーク大学映画学科大学院で学ばれてきたという経歴の持ち主の方。内容はおもしろかった。「おもしろかった」という言葉で括ってしまうのもどうかと思うが5作品のそのひとつひとつすべてが違うので一概に感想をいうのもむずかしい。表現が適切なのか分からないがもっと正確にいうならば「妙で興味深かった」というのがしょうじきな感想かもしれない。上演終了後に高柳監督と話をした。映画を観て疑問に思ったことを訊いてみた。どのような眼差しでモノを作っているのか。やはりそういうことは聞けば聞くほどおもしろい発見がある。まあ聞いてみてどんどんつまらなくみえてしまう場合の人もいるんだけれど。それで僕もまた考えるしこれからの何かの種になる。そういうことが少しずつ見えてくるこのような瞬間というのはたまらなく楽しい時間だ。初対面なのにもかかわらずいま考えるとすこし恥ずかしいなと思うくらい喋ってしまったような気がする。
■話の中で出てきた、代官山にたずさわる地域の住民の代官山ヒルサイドテラス代官山アドレスに対するスタンスとその対立の関係性などはじつに興味深かった。そして笑える。ちょうど一緒にいた建築の大学院に通っているA賀くんのゼミでもそのようなディスカッションをしていて、そのような街のあり方の考え方とか様々な捉え方というのは本当におもしろいなと思う。もっと聞いてみたいところだ。このような街における興味はやはり建物云々よりもそこにいる人間模様、というかそこにまつわる人間の心情というのか、そういう部分にこそおもしろさの醍醐味があるな。
■そのA賀くんが大学院で今年取り組んでいる研究内容も興味深い。そうとうおおざっぱに説明すると、例えば渋谷から原宿に向かって歩いているとき、人の感覚の中でどこからかある地点で「渋谷」から「原宿」へと認識がスライドする。この「どこから原宿」に切り替るのかというポイント。この切り替りの『ある地点』を物理的側面から調査して分析するという内容だ。これは街の持つアフォーダンスの研究といえると思う。また個人によってそのような認識は異なると思うがそれをまたどうやって処理していくのかも含めて相当気になる内容である。そこから読取れる都市構造なども色々あるのだろうな。
■いつのまにか予定を大幅に越える時間が過ぎていた。それで僕はこの日、けして遊びに行ったわけではなくて、ある企画があって観に行った。8月の末にUPLINKで公開されるこの映画のDVDが上映期間中に販売されることになっていてそのDVDのひとつ(※全部で5個ある。)『リンゴと虫』 〔2006バンコク映画祭(タイ)ノミネート・上映作品〕という作品に僕の作品のブックレットを付けるという話の為に行ったのだ。きょうはもうこれ以上書いていられないので明日また書こう。時間がないのだ。
(つづく)
(23:23 07/26 2007)

Jul. 01 sun. 『7月1日のはなし #03 』
■そういえばあれだ。まだ7月1日の話は終わっていなかったんだ。だから森下からのつづきです。
■ご飯を食べる時間が全然なかったうえに前に観た展覧会と公演のことを移動中も考えていたらとても疲れてきてしまった。そうだ、思い出したけどなんかこの日は沢山の荷物を持っていたというのもあった。もう行くの止めようかなと思って駅で20分くらい行こうか行こまいかしているうちに「この時間こそ1番無駄だろう」ということにハッと気付いた。閉館時間も差し迫っているしこれも今日が最終日だった。だからとにかく強引に観に行くことにした。
《茶室 徹》
■初台へ。オペラシティアートギャラリーで藤森建築と路上観察学会『第10回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展帰国展』を観に行く。

屋根にタンポポやニラが植えられた住宅、皮付きの木材を柱にした巣箱のような茶室。藤森照信の作品は、建築の通念を軽やかに超えた新しさと、遠い記憶を呼び起こさせる懐かしさを併せ持った、きわめて独創的な建築として知られています。

たしかに。粗野のようでいて温もりの感じる建物は、学術的な観点や技術的な点はよく分からなくてもただ単に見ているだけで十分に楽しめた。銅版を手でくねくねと曲げていき、それを外壁にする。外壁はサビていき風合いをもたらす。さいきん街の中ではなかなか見ることの出来ない自然物の持つ風合いにも触れた。入ってすぐのボードに書かれていた説明の冒頭で「モノを作ることにおいて大切なことは色々とありますが、その中でもなにを一番大事にしなければならないかともし訊ねられたら、それは『仕上げ』です。」というような意味のことが書いてあった。この足元の感覚というか、当たり前だけれどついおろそかにしてしまいがちの大切なことを言葉として再確認できるだけでこの展覧会には来てよかったと思った。2004年に竣工された長野県にある茶室≪高過庵≫の制作ドキュメントが流れていてその家を作っている大工のおっさんが「頑張っているな」と観ていたら、よくよくみると赤瀬川さんだったので笑った。

路上観察《世界一楽しいスベリ台、東京》<br />
■そして「路上観察学会」の活動展示。

自身が結成メンバーである「路上観察学会」の活動も、赤瀬川原平、南伸坊、松田哲夫、林丈二を迎えて包括的に紹介されます。活動初期の写真や刊行物などの資料が一堂に集められ、メンバー自身の手で展示されることにも期待が高まります。都市の中に現れる無用の美を「物件」として採集するその姿勢は、意識的になされるあらゆる芸術活動とベクトルを逆にするものです。「未来ではなく過去に向かっての前衛」である藤森建築と、路上観察の軌跡を辿ることは、私たちの生きる都市を改めて考察するきっかけとなることでしょう。

今日では当たり前になったこのような視点ではあるが、やはりそれを一般的な大衆に向けて新しい視野の開拓をひらいたこの人たちの活動というのはアンディ・ウォーホールに匹敵する功績を持っているんじゃないかと勝手に僕は思っている。「建築」も「観察」も全体的にとてもほのぼのとした内容で癒された。外に出ると藤森さんがいらしていて学生くらいの若い方々とお話をしていた。またそうやって触れ合う機会があることも素晴らしいことだと思う。僕も少し訊ねたいことがあったけれど、そこに割って入っていく元気もとうていなかったし横目で追いながら階段を下りていった。
それにしても今日は形態やテーマは違えど「自然とはなにか」ということに触れ、もう一度考えさせられるような一日だった。いって良かった。
■それから吉祥寺に行って高円寺に行って方南町に行って・・・そんな感じで終わりました。とにかく、とてもくたびれたんだよこの日は。
(おしまい)
(19:44 07/25 2007)

Jul. 23 mon. 『半ドアです』
■きょうは、つごう3時間ていどは考えただろうか。とっても考えて。あらゆる状況を考えてみて、ある決断を下した。僕ひとりならばそんなことはまったく関係ないんだけれど。やっぱり下した以上はその先を見せなければならない。いろいろな人に迷惑はかけるけれどそのためにも先を見せなければ意味がないと思う。やるしかないのだ。
■谷崎潤一郎がいうには「日記などに個人名をそのまま表記するのはじつにナンセンス極まりない」ということらしい。僕はこれまでほぼ友人などに関しては本名を書いてきたけれど、どうなんだろうか。そういうのが困る人もいるかもしれないな。だからといってニックネームもどうかと思ってしまう。サトルくんはサルトルくんか。うーん、ちょっとあたまが良さそうになるぞ、これは言い過ぎだ。渡辺くんのトミーくんはどうか。まるで変換の意味がないな、むしろ分かりやすくなっている帰来がある。とりあえず頭文字はイニシャルにしてみようか。
■日曜日に伊勢丹メゾンマルタン・マルジェラの顧客用のプレゼンテーションに行ってきた。これは非常におもしろかったので今度ゆっくり書こうと思う。ポツドールのことも書きたいが、こんど書こう。とか、あと延ばしにしているとまた書かなくなってしまいそうだ。それはまずいので最近書きたいことのトピックをここに覚書として書いておこう。

・マルジェラプレゼンテーションのこと
・《姿勢の姿勢》のこと
・新人大賞のこと
・トランスジェンダーのこと
・生地のこと
・自転車屋さんに気付かされたこと
・最近見た芝居(ポツドール)のこと
・ファンタジーのこと
・弟のこと
・格差社会のこと
・ロストジェネレーションのこと
・僕の服装のこと
・含羞と冷笑のこと

なかなかぱっぱと書けないが随時書いていければいいと思う。もし何かリクエストがあれば左の列にあるメールから要望いただければ優先します。って、偉そうだなずいぶんと。この態度は何様のつもりだろうか。
■ところでクラスメイトのM江原さんのお姉さんの作る料理はおいしいよ、ということをとにかく言っておきたい。お姉さんはリマ・クッキングスクールの師範コースを卒業されているそうだ。それで興味があったのでクッキングスクールについて少し聞いてみたら「女子30人に男子1人くらいの割合だよ」と聞いたので、ひいた。吉祥寺のほうに「男のためのマクロビオティック」なる催しをやっているところがあるそうなのでそっちの方がいいかもしれないな。ネーミングの変な響きは少しひくが。
■そんなこともあってきょうは自分で作って食べようと思い、セロリと茄子とズッキーニと小松菜を買って帰ったのだが、適当にやりすぎて味が濃くなってしまい失敗した。濃すぎる味つけは本当にめげる。
(01:26 07/24 2007)

Jul. 21 sat. 『ストリングス オブ ライフ 』
■管楽器や打楽器も必要だけれど、やはり主体は弦楽器。ストリングスが好きなのだ。ストリングスはやはり温もり。そして、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスなどもそうだけど技術的な上手さよりも手の温もりのようなものに大きく惹かれる。それは演奏のつたなさだろうか。ヘタという意味ではなくてセンスのいいつたなさ。弾いてかえす時のゆり戻しのようなそういうのは、心を揺らされる。それで、統一感はまるでないけれど最近よかったものについて。
 
 
IGUANA TWIGGY POP IGUANA TWIGGY POP
Degurutieni (2006/11/22)
インディペンデントレーベル

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■大阪のインディーズバンドデグルチーニ。こんな人たちがインディーズなんだから大阪の音楽事情は恐ろしいと思う。凄い。絶対に売れるバンドだと思うんだけどな。ジャケットやヴィジュアルの趣向は僕の趣味ではないけれど、いってしまえば音楽も少し趣味からずれているのだけど「音」はそんなことを凌駕する。ジャンルでいうと何なんだろうか。「和製トム・ウェイツ」とかいわれているようだけど。ブルース、ジャズ、サイコビリーみたいな要素なのかな。ジャンルに疎いのでよく分からないがイメージだけで例えるならば、東欧の暗さのような印象も受けつつ海賊の様なドライヴ感でもありながら大正ロマンな印象も受ける。久々に「センス」という言葉が過ぎった人たち。特に波多野敦子さんのヴァイオリン・セロは凄いと思う。
 
Kurr Kurr
Amiina (2007/06/19)
Ever

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■アイスランドのカルテット、アミーナ。シガー・ロスのお気に入りだそうだ。メランコリックな甘さになってしまうかもしれないし、けして目新しいわけでもない。けれどやさしい肌触りの寄り添うような合奏がいい。ほんの少しのつたなさも。たまたま2曲目を聴いて買うことに決めた。テルミンのような音色が頭の中にすうっと入ってきて、それがなんだか泣いているようなんだ。硬直した心象を解きほぐしてくれるゆたかな空気に満ちている。「mum」を見つけたときもたしか退院明けだった。弱っているときにはこのような音楽を聴いてしまううのかもしれない。欲をいえば、僕としては音階のハーモニーがもう少しずれているばよかったかもしれない。
(14:02 07/21 2007)

Jul. 19 thu. 『旅の恥はかき捨て』
■オンワードから「作ってるか」という詮索の電話がきた。だから僕はそうですねアハハハ、と高らかに笑って返しておいた。
■ひさびさに風呂に入ったらやっぱり気持ちがいいな。本を読んでいる場合ではないが、風呂に入るくらいならば本を読んだほうがマシだろうという理不尽な開き直りで最近は怠っていたが、でもやっぱり入ると気持ちがいい。気持ちがよくて寝てしまいそうだ。イギリスにいる福岡あたりなんかは風呂に入ってないんじゃなかろうかと僕は勝手にらんでいる。大丈夫か。入っているのか。風呂にはきちんと入った方がいいと思うよ。と勝手に決め付けているけれど、そういえば最近着ている服もずっと同じままだ。でもこれはもう少しいけるなという気がしている。
「日本の歴史をよみなおす (全)」
■で、昨日つい気をとられて荷物を忘れてしまったときに読んでいたというのが歴史学者・網野善彦さんの「日本の歴史をよみなおす (全) 」という本。網野さんは一部では批判もある人らしいが読めというような意味の機会に3回も触れたので3度目の正直で読んでみることにした。この中身がたいへん興味深いことになっていて、「読み直す」どころかむしろ歴史の発見だ。僕の認識の歴史感事態がそれほど豊かではないのだが、そんな知識どうのこうのという以前に学校では教えてもらわなかった先人たちの生態、今の常識からはおおよそ外れている中世(南北朝動乱期・十四世紀)の構造に呆気に取られてしまう。例えばこんなだ。
■男女の性のあり方において。祭りや、あるいは神社・仏閣などにお篭りしたときなどに男女のフリーなセックスが行われるという習俗のあったこと。それが裏付けられるような資料や当時のものの考え方を整理していく。たとえば、神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れると考えられていた。つまりそこには世俗の関係が持ち込まれない場所であり、それゆえに男女が自由に交渉することが出来たというのも決しておかしな話ではない、というのある。
■さらに、昔は女の人の旅はわりと頻繁に行われていて、そこで道すがらに「女捕り」「辻捕り」が行われていたという事実。「女捕り」「辻捕り」とは「路上で女性を捕えて妻などにすること」で、いわゆるナンパのような軽いものから誘拐、人さらいといった犯罪行為まで含まれる。このような行為はたてまえの上では禁止されているものの中世の日本ではかなり行われていたらしいという。「辻」とは本来道が交差する所などをいうのだけど、昔の辻はたんなる人の通り道ではなくて神や妖怪の通り道でもあり、辻と天上世界、黄泉国は垂直的に繋がっている場所であるという、つまり神社・仏閣と同様に世俗の縁が切れている場所と考えられていた。逆にいえば、そこでおこったことはその場だけですませるという慣習があったことを、鎌倉時代の文書に引用された「関東御式目」によって照明できるというのだ。例え殺人だとしてもそのように規定されていたというのだ。しかし、いちばんおどろきなのが、この話の最後に網野さんは

「旅の恥はかき捨て」などという諺が現在でも残っているのはそのなごりではないかと私は考えております。

と結ばれていることだ。ちょっとこれはすごいなと思うだろう。「旅の恥は~」という諺がそんなすごいことになっていたとは思わなかった。生半可な恥ではすまされないのだ。それを「まあ旅なんだから」仕方がないなと。そんな名残りだったとは。そんなことに比べれば僕の旅の恥なんて小さすぎて、その小ささがまた恥ずかしい。
■まだ全部読み終わってないけれど、他にも文字のはなしや貨幣のはなしから非人や天皇のはなし、「百姓は農民ではない」「日本は孤立した島国ではない」「日本人は単一民族ではない」「東日本と西日本はもともと違う文化圏である」などなど既存の考えかたに捕らわれないで新しい視点からの歴史の認識を試みている本で、読めば読むほど引き込まれていく中世日本という世界が広がっているのだ。これは荷物も忘れるというものだし風呂にも入れないというものだ。まいった。
(23:49 07/19 2007)

Jul. 17 tue. 『社会の窓 』
■本を読んでいた。そこに書いてあったことがおかし過ぎて、ほんとうにそんなことがあるのだろうかとおもわず思ってしまう内容だった。それでそのことについて考えながら電車から降りたら荷物を持っていなかった。買い出してきた材料を全部電車の中に置いてきていたのだ。やってしまった。気が付いてから京王電鉄で調べてもらったが、車内と一通りの駅を見てもらっても「見当たらない」ということであった。それがないと作業が何も出来なかった。僕にとってはとても必要な物だけれど一般的に見ればとても必要のない材料であると思う。うーん、あんな物を。あんな物を一体誰が持っていくのだろうか。持っていったところで何の得があるのだろうかとしか思えてならず「まさか」と。つい駅員に対して「本当にきちんと調べているのだろうか」という疑いを持ってしまう。これは良くない。疑ってはいけない。しかし、見れば見るほど駅員の男はいかにもミスを侵しそうな頼りなさそうな顔をしていた。なんだか態度もあやしいぞ。そう思って見てしまうとますます「この男で大丈夫なんだろうか。もしかして、この人はダメな人なんじゃないのか。」という疑問に駆り立てられ、それはいよいよ確信に満ちてくるのだ。しまいには「お前じゃ話にならん、駅長を出せ」という気になってくる。そこが問題だ。まず最初に荷物を忘れた自分がいる。その自分のダメさ加減を棚に上げて、あ、そうそう、荷物も棚に上げて忘れたんだ。ついでに自分も棚に上げて、あろうことか駅員の面構えをつかまえて「ダメなんじゃないかこの男は」という不信感を募らせてダメさの所在を摩り替えてしまっている。これはますますダメな感じだ。何でも棚に上げるのはよくないな、気をつけようと思う霧雨の夜だった。
■それにしても忘れることが目にあまる最近だ。こんな症状が富に見られるのは、ひとえに気の足りなさなのだろうと思う。そして現在このような状態が1番ダメな表象としてわかりやすく表れているのが頻繁にズボンのチャックが開いていることだ。「社会の窓」が。開いているのだ。それが終日だったりする。生地屋に行っていくら真剣な面持ちで生地を検討しようが、いくら「この生地じゃ駄目なんですよ」と頑なだろうがそれがいったいどれほどの説得力があるだろうか。お前のダメさ加減とその生地とどっちが駄目なんだよ、という話になればぐうの音も出ない。チャックのダメさ加減というは、平日のまっ昼間からなんとなく浅草でぶらぶらしちゃっているおっさんたちの匂いがする。社会の窓が解き放たれていればそれだけ社会性は閉ざされていくような気がする。ずいぶんとアイロニーな表現だなと思っていちおうウィキペディアで見てみたが

1948年-1954年、1959年-1960年にNHKラジオで放送された情報番組、「インフォメーションアワー・社会の窓」。次項の俗語はこの番組から生まれた。
男性のズボンのファスナーの俗語。開いている状態を指す場合が多い。前項の番組が「社会の矛盾を暴きだす」という内容であり、つまり「中に大事なものが隠されている」という発想から生まれた言葉である。女性の場合は「理科の窓」という。

なんだ、意外とふつうの由来だった。「理科の窓」とははじめて聞くが。そんな女子を発見したらこんど使ってみようか。でもその前に自分のチャックを気をつけないとな。その為にも、トイレの時も他のことなどは一切考えずに小便に集中しなければならない。集中しなければな
(22:33 07/18 2007)

Jul. 01 sun. 『7月1日のはなし #02 』
■昨日の日記について少し付け足すと、『左右対称』がいいとかわるいとかそういう次元の話ではなくて、もう一度『左右』ということ、物ごとの有り様・形態についてきちんと調べてみて考えてみる必要があるなと思ったわけです。そこから何が発生するかは分からないけれど、何かやっぱりそう思う何かがある。そう思う何かがあるってことはきっと何かがあるんだろう。そういう直感は尊重しなければならない。だから調べなければ。
で、とりあえず手始めに以前大学生の頃に読んだ「自然界における左と右」という本を読み返そうかと思ったら本棚に無い。「何処へいったんだ?」と思ってて、それでたまたま友人の家に遊びに行ったとき、何の気なしにふと本棚に目を見やると。並べてあったのだそこに。「自然界における左と右」が。あった。ある。あるよ。そういうのは僕もよくあることだよ。だから逆にまだ本を返していない人へ物申したいことがある。ごめんなさい。
『ニュータウン入口』
■7月1日の話にもどる。次に森下へ。森下スタジオへ遊園地再生事業団#16『ニュータウン入口』プレビュー2「準備公演」を観に行く。とてもおもしろかった。僕は前日あまり寝てなくてそれでデュマスでそうとう興奮してカロリーを使ってしまったうえにご飯を食べる時間もなく移動していたので、正直眠ってしまうのではないかという不安があったのだが逆にぎらぎらしてしまった、くらいおもしろかった。まだ準備段階でこのおもしろさでいいのかと心配すらしてしまった。前回のリーディング公演を踏まえたうえで色々と本を読んだり調べたりしていったから全くの初見の人も同じように楽しめるのかは分からないが、でも多分楽しめると思う。ギャグや言い回しでの「おもしろい」部分もあるがそういうものだけに頼ることなく演劇としての表現方法の技術やアイディア、可能性といえばいいのかな、そういう部分で「おもしろいな」と思わせるのは流石だと思う。前回(※リーディング公演)でいまいち繋がってこなかったストーリーの箇所に身体所作が入ることで随分と整合性が表れてくることも、身体から発する何かというものの存在の大きさの驚きとそういう身体性を改めて認識できて興味深かった。疑問の感じた幾つかの点はまた考えてみようと思う。あとはストーリーにおいて最後の部分やまだ繋がりの釈然としない箇所は残るが逆に本公演ではそれをどの様に繋げて行くのかな、という更なる進化の可能性も含めてとても期待出来る内容だった。いったいサブタイトルへのアンサーはどうなるのだろうか。とても楽しみだ。そのサブタイトル「または私はいかにして心配するのをやめニュータウンを愛し土地の購入を決めたか」という言い回しもも良かった。今回の公演に関しては最初から追いかけて見ているせいで演劇ということを抜きにしても物作りの方法論という観点で勉強になることがとてもあって、そういうことにも凄く刺激を受けている。アフタートークを聴いてまた少しそういうことについて考えながら会場を後にした。そうしたら案の定、また携帯電話を落っことしていた。戻ってみると受付に置いてあった。考えてるときは本当にだらしがない。最近はとくに駄目だな。携帯も頻繁に置いていってしまうのです。
■興奮して、そしてどっと疲れてぐだぐだしながら一応初台へ向かう。
(つづく)
(23:04 07/16 2007)

Jul. 01 sun. 『7月1日のはなし #01 』
■「中平卓馬展」と「世田谷時代の岡本太郎展」の両方ともに行ったら既に終わっていたという由々しき自体に陥っていたのが先々月の話だったのだが、にも関わらず何の学習もなされていない7月1日のこと。
Dumas
 
Dumas
■朝から菊川へ。東京都現代美術館で「マルレーネ・デュマス-ブロークン・ホワイト展」を観に行く。今年の展覧会の中ではとてもとても期待していた二つのうちの一つで(※もう一つはジュン・グエン=ハツシバ。何処で開催されるのかは分からないけれど9月辺りに開催されるという有力な情報があった。)何の意味も無いが期待しすぎて引っぱり過ぎたら最終日になってしまった。大学生の頃に本で見て以来強く印象にあったので、これはもうまるで好きな人を目の前にするような感覚で入る前から少し緊張していた。中は。その緊張を上まわる空間が広がっていた。強さ。弱さ。生さ。吸い込まれるようにぼんやりと見入る中で頭に浮かんできたことは左右非対称であることへの眼差しだった。目新しいことでもないし当たり前の現象であるのにも関わらず普段の生活で忘れてしまっているこのことについて気付かされ、同時にそれを忘れてしまっていることについて考えさせられずにはいられなかった。進んでいくうちに表れたアラーキーのオバサンを沢山撮ってそれを連ねた作品を見ればその原因は尚のこと一目瞭然だった。これは。こんな当たり前のことを、僕らを取り巻く人工的な環境がそのようにさせているのだろう。そんなことを日常の中で忘れることが出来てしまうのは僕はこれは例えばごく身近なところでいえば服のせいなのではないかと思った。
■そういうことを思ったときに、「あれ?そういえば何で俺は左右対称に服を作っているのだろうか。」という疑問が湧いてきた。デザインとしての左右非対称は別問題だが、そういう点でもなくかといって量産することを目的としている訳でもない自分が左右対称に作っている理由は考えてみれば一つしかない。都合、つまり楽だからだ。分かっている気でいたが、意識している中の無意識レヴェルで許容していた。もう少し丁寧に言うならば、「どうでもいい1mm」だとか「どうでもよくない1mm」だとかいう中で「どうでもよくない1mm」でさえ相対的に体系化された座標に対する眼差しでしかなく、それは人間を見つめている眼差しという意味では明らかに違和感があるということについて僕は理解していると思いながら、左右の関係性には今までまったく無頓着に気にせずやってきた。サイズに関しての疑問からの掘り下げ自体が自分の当たり前の観点から結局脱しきれていなかったことをまざまざと見せ付けられた。自分が楽をしていることが身体の多様性とか多義性ということに対して閉鎖だとか排除という行為を生み出している。その無自覚さに対してデュマスを見ながら、どうしようかと考え込んでしまった。左右対称であることの影響。殺菌作用としての効果。それに囲まれる事態によって逆転する主従関係。過敏に捉えているように感じるかもしれないが、そういう感覚に対する「結果、分かっているふり」というような麻痺感覚が地域や格差、社会という考え方に対して少なからず荷担している部分があるのではないか。大げさに言ってしまえば個の不在という認識への助長ともいえるのではないか。これは「なぜ服を着るのか」というテーマに於いて今後よく考えていかなければいけない僕にとっては大きな問題だと思った。そして身体的な性の有り様。曖昧さといったらもしかしたら言葉が違うかもしれないな。例えばロンドン大学のロバート・プローミンの調査によれば、性によって有意差があるとされる身体・精神機能でも、実際の分布上はその80%は重なっているのが普通であるというようなこと。そういう観点からのジェンダー的思考を蜂起させる身体の絵。そういった様々な問題提議を突きつけられたデュマスの作品は、そのような観点を抜きにしても本当に素晴らしいく強く果敢なく心に訴えかけてくるものだった。そして映像を見る限りでは想像どおり野性的な情緒を持つ女性だった。考え込んでしまったせいもあるが良すぎて2回半周ってしまった。久々に、これは観に行かなかった人は勿体ないなと思った。
■会場で流されてたドキュメント映像を見ていると小柳さんが出ていた。とても可愛らしいなと思った。それで小柳さんが髪を纏めるのに使っていた留め具?がとても格好良くてすごく欲しいなと思ったが初めて見る形態の代物だったので何という名称かさえよく分からなかった。
トーキョーワンダーウォールも同時開催されていたので見た。全体的にステレオタイプな印象を受けた。良いのか悪いのか意味は分からないけれどとにかく今っぽい作品が多かった。もちろん上手だなと思う作品は多々あるけれど、そこから何か受ける刺激というものがいまいち無い。自分の好きにやっているのだろうけれど全体的に似ていて、さらにそこに対する意識があまりにも希薄にみえた。作品を見ていると今の人たちって何か、混沌とした世界を漂白したような目で見つめているような印象を受ける。傍観しているのか或いは高みから覗いているのか。何と言うわけでもなくて。すこし恐い。作者にその辺のことを聞いてみたい。それで、僕が知ったときには既に締め切りが終わっていたのだけど今年から立体作品の公募も始まったのだが、どうなんだろうかこれ。うーん。でもこれは来年出すしかないだろうと思う。なんだか温度をあまり感じない展示だった。
「明日の神話」
■常設展では銀座エルメスギャラリーの展示を見はぐっていたスゥ・ドーホーの≪Reflection≫や、宮島達男≪それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く≫も見ることができた。そして岡本太郎の≪明日の神話≫が展示されていた。でかい。でかすぎる。もうそのでかさが凄い。バカでかいのだ。でもでかすぎて正直あまり眺めていようという気がしなかった。多分もっと遠くから見るべきなんだろうこの絵は。絵までの距離が短すぎた。これは具象絵画だと思う。岡本太郎は情熱とか爆発を描く、そういう意味では目に見えないものを皆が目に見えるように具象化している人なんだろう。だからこれは具象絵画だと思う。
■時間が無くなってきたのでそこそこにして急いで森下へ向った。
(つづく)
(22:30 07/15 2007)

Jul. 14 sun. 『John Cage 4'33 』
■今日はジョン・ケージ「4分33秒」の演奏風景でもお楽しみください。ローレンス・フォスター指揮、BBC交響楽団によるフルオーケストラ・バージョン初演です。

■この楽曲は三楽章で構成されています。
 
■ほんとうは今日の夜パーティーがあって久々にDJをやりたかったけれど、そんなことしてる場合ではないのであきらめるしかない。選曲はしたけれど我慢だ。曲名でも書いたらやった気分になれるかもしれない。主軸テンポは126BPMくらいで。 

 
01.DEXTRO / Do You Need Help (the mfa's help help tool)
02.AVUS / Spnkr
03.CLAUDE VONSTROKE / Deep Throat
04.STEVE BUG / Loverbody (Guido Schneider Remix)
05.PETTER / Some Polyphony
06.LAZY FAT PEOPLE / Dark Water
07.HOLDEN / Idiot
08.KEVIN GORMAN / DMX
09.AVUS / Furry Hat
10.EXTRAWELT / Soopertrack
11.HOLDEN + THOMPSON / Come To Me (Holden Amateur Guitar Mix)
12.NATHAN FAKE / The Sky Was Pink (Icelandic version)
13.PETTER / Less Exciting
14.THE MFA / The Difference It Makes (Original Mix)
 

しかし物凄く偏っている。殆んどBORDER COMMUNITYばかりだし、だいたい何よりも暗すぎる。相当に内向的なセットだ。嘆いたところで己自体が基本的に暗いので仕方がない。そして、やはりというか当たり前だが書いたところでやった気には全然なれない。どうすればいいんだ。今度やれればいいか。
■それでこの前レコード屋を探していて「KEVIN GORMAN / DMX」がまったく見当たらない。そんなに無くなるレコードでもないだろうと疑問に思って調べると、どうやら川辺ヒロシがDJMIXCDを出していてそこで使用されていて多分そのせいっぽい。驚いた。川辺ヒロシって。「TOKYO No.1 SOUL SET」の川辺ヒロシがKEVIN GORMANを掛けるんだという驚き。大沢伸一のGIGOLOシフトにも驚かされたけど。そうか僕が知らなかっただけなのかもしれないが、関係ないと思っていた人がいつの間にか近い島に漂着してるのっていうのはとてもおもしろいと思う。そういえば前には岡村ちゃんがキラバイト、くるりがリッチーホーティン、なんてこともあったな。
(15:28 07/14 2007)

Jul. 13 fri. 『喧喧囂囂』
■毎日とか言っておきながらはやくも1日空けているが気にはしない。気にしなければいけないのは課題のシャツが終わってないことの方だ。今日からテクノロジーコースの展示なのに出していない。だから展示もしない。考えたら一度もテクノロジーコースの展示には参加してないな。これからどうしようか。
■形態機能研究所の伊藤先生から、渋谷にある(株)福祉技術研究所の岩波先生を紹介してもらったのでメールを送る。座位の姿勢に関する服のことで少し調べてみたいことがあるのでお願いしてみる。
■新川から面白い話をもらう。これ書いていいのかよく分からないので内容は伏せておくがとても興味深い。なんだかんだと忙しい時期だが先につながる事や生産的な摩擦を期待できることに関してはどんどんやっていかなければ勿体無い。だからかなり前向きに検討していきたいと思う。
■昨日は秋葉原に行くと阿部首相が熱弁を振りまいていた。やかましく。一緒にいた友人はインタビューされたようだが「何言ってるのかよく聴こえないです。」と答えたそうだ。たしかに。どうなんだあのサウンドシステムは。マイクが篭っちゃっていて聴きとりにくい。吉祥寺では薬害エイズの川田龍平氏が演説を行っていた。彼も立候補するようだ。しかし、やはりやかましかった。どちらにしても喧喧囂囂牛だなと思ってしまう。イメージとしての勢いを植え付けたいというような戦略なのかもしれないが、そういうのはやめて欲しいなと思ってしまう。或いはそれらをノイズにしか聴こえない僕の精神状態がそう思わさせるのだろうか。はやく宮崎に飛んで像を地中深くに埋めるか引っ張り出すかする方が先決だろうと思うのだが。冗談だけれど。あの怒鳴った者勝ちみたいなものは何とかならないのかな。
■昨日の話の〈鏡〉について、書いたあとでいったい鏡って何だろうかとぼんやり思っていると「鏡か。うーん、かがみ・・・あ、加賀見だ。」と気付いたので急いで参院選の立候補者を調べてみたが「加賀見」なる人物はいなかった。違うのか。加賀見じゃないのか。そうでないならば「政治は世相を写す鏡である」という切り口から話を進めてみるという手のもある。が、今はそんなことばかり考えてもいる場合ではないのでもう止めておこう。神話や伝説を使って入れ子の構造的に現代を読み解くという行為は面白くてきりが無いのだ。でも、だれか民主党に助言を送れる方がいたら「『加賀見』という名の候補者をはやく擁立してください。」と小沢さんに言っておいてください。そういえばその小沢さんだが今朝新聞を開いたらとんでもない勢いの顔でバーンと広告写真が乗っていた。みんな勢いつけて何処に行こうとしているのか。
■前回『カウンター・ポイント』についてのこと簡単に書いてみてからまたもう一度「アフォーダンスへの招待」という本を読み直している。あらためて読んでみるとアフォーダンスというものの多様性に難しさをとても感じるが、それと同時に可能性もとても感じずにはいられない。僕の咀嚼の甘さもおおいに感じたのでまず認識の部分からもっと考えなければいけない。

(22:43 07/13 2007)

Jul. 11 wed. 『女神の行方』
■最近まったく日記を書く頻度が激減している。それは忙しいからだ。こんな理由はえらそうで図々しいが、すみません。適当にでも書いてしまえばいいのかもしれないけれど、だからかといって日常の他愛もない行動を書くのもどうかという気がする。でも逆に短くても何かを書き連ねるほうが大事なのではないかともうすうす感じたりもする。「大事って、いったい何が大事なんだよ」といわれても困るが、そうしないと飽きてしまいそうなんだ。自分が。だから試しに無理矢理にでも今日からはしばらく毎日書いてみようかと今現在この時点で思っている。けれど寝て起きたらまた考えが変わっていそうな気もする。まあどうでもいいかそんなことは。とか、そうこう書いているうちに少しずつ〈行〉が埋まってきているぞ。うん、いいぞこれは。本当にいいのか。どうなんだ。だって中身は何もないのだ。うーん、本末転倒な気もする。1番の時間の無駄さかもしれない。なんだかよく分からなくなってきたが分かったところで、だからどうしたという話でもある。
■本当は他にも書きたいことはいっぱいあるしまとまらない状態の下書きのまま放置されているものも幾つかある。長文を引用しようとして打ち込むのが面倒になり挫折したものとかもあるな。まとまらないままでも書き出してしまえば何とかなると甘く見て以前に「大阪モードコレクション」のことを見切り発車で書いてみたら、結局まとまらなくてとんでもない文になってしまった経緯もあるので、あれ以来そういうのは懲りている。やはり今は優先順位としては、「作業>読書>日記」ということになるだろう。これはおそらく今月いっぱいはどうにもならないだろうと思う。来月からは頑張りたいと考えている。今月は適当にやってみようと考えている。ということでとりあえず今日はかなりどうでもいいことを書いてみる。「もう既に相当どうでもいいこと書いているじゃないか」というつっ込みはお断りだ。
■僕の母方(旧姓・田中)の伯父、田中等は彫刻家をしている。宮崎県で主に活動していて抽象作品がメインなのだが商業的な関係で具象作品も制作している。県内では空港や市街地などでわりと頻繁に作品を見受けることができる。で、そのことは1回おいておく。
それでだ。すこし前から公園のすべり台部分や側溝の鉄フタや墓場の線香置き(ステンレス)などが盗まれる事件が多発している。中国の建設ラッシュの煽りで金属の価格が高騰したために高く売れるからだ。そんな盗難が頻繁に起こっている。岡山県の神社では備前焼の狛犬が相次いで盗まれるという事件も起こっていて、これに至ってはもうそんなものいったい何処に売り飛ばすんだという訳の分からない事態になっている。世間ではその様な、空前の窃盗ブームが起きているのだ。そんな折にこんな事件が起こった。これが先ほどの伯父が制作した作品だったのだ。ブロンズ製の女神像は陶器よりは資材としても整合性はあるので差ほど疑問にも思わないが、全部を含めると2トン近くもある重量の物を「気付かれずに台座ごとどうやって運んだのか」というのがどうしても謎な状況であったらしく、現場ではそれなりの騒ぎになったらしい。しかしである。この事件は後日こんな結末だったことが分かる。この一件を母から聞いて思わず笑ってしまった。ずるっと。すべっていなくなったのだ。宮崎県高千穂町は、太陽神であるアマテラスが隠れて世界が真っ暗になってしまったという天の岩戸伝説の舞台になっている町だ。もっともブロンズ像はアマテラスオオミカミの孫で高千穂峰に降りたニニギノミコトの妻として古事記などに登場するコノハナサクヤヒメという女神だが。しかしコノハナノサクヤヒメの説話というのは短命の起源を語ったもので、加えて富士山本宮浅間大社の社伝では水の神ということでもあるらしい。つまり、90年に制作設置された〈短命の水の神〉が「天の岩戸伝説」の残る町で、水に流されて地下に隠れてしまったということなのだ。これはおもしろいぞと思った。伯父の日記にはこう書いてあった。

ニュースによれば、大きな音と共に像が消えるのを通りすがりの車の中から目撃した人がいるようだ。それで穴へ降りて調べてみることになったようだ。
像は見つかって所有者のKさんも喜んでいる映像が流れていたが、しかしどうやって穴から出すのだろうか。
ニュースと前後して電話してきた夕刊デイリー高千穂支局の記者の話だと、井戸は深さが25メートルあり、素堀りなので侵食されてかなり穴が大きくなっているということ。
今のところは6,7メートルのところにあるが、今のまま雨が続けばさらに深く落ちる可能性もあり、引き出せるかどうかは未知数ではないか、という事であった。
確かにどうやって引っ張りあげるのだろうか。
明日天気がよかったら現場を訪ねていくべきか。

当事者にこんなこといったら殴られるかもしれないが、岩戸隠れの伝説になぞらえるならば〈大笑い〉と〈鏡〉を用意すれば解決できるだろう。だからこれは大笑いしてもいいことなのだ。そんなに笑えるかは分からないが。しかし他にも事件が重なっているらしくその翌日の日記にはこう書いてあった。

連日の事件発生に、血圧も急上昇。今日は頭が重い。

「急上昇」って。本気なのか冗談なのかがよく分からない。ここは笑っていいところなのか。どうなんだ。大丈夫か伯父。
■もう少しこの内容を引っぱってみようか。アマテラスが天岩戸に隠れて世の中が闇になるという話にはこのような解釈がある。

岩戸隠れの前と後でアマテラスの性格が変わっている(岩戸隠れの前は独断で物事を決めているが、後では高木神の指示を仰いでいる、など)ことから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとする説もある。

なるほど。もうすぐ参議院選挙じゃないか。参院選までにこの像が引っ張り上げられるか否かが今回の選挙のターニングポイントになってくるのではないだろうか。一つの像をめぐって全政党挙げての大人げない大攻防戦を是非とも見てみたい。だからといって、果たして勝利の女神はどちらに微笑むのだろうかなんてベタなことを言うわけない。
(23:29 07/11 2007)

Jul. 04 wed. 『そもそもお前は何人前』
■次の制作について何人かの人に意見をもらう。僕自身の思考の擦り合わせの参考にもなると同時に、他人が何をどのように捉えているかも見えてくる。人の眼差しって本当におもしろい。そういった勉強にもなる。あらゆる面でこういう摩擦はとても大切なことだと思う。そろそろいい加減に方向性を固めなければならないのでそれを純粋に楽しんでいる暇ももう無いが。それで、褒めてもらったときについニヤケてしまった。これはいかんと口元を引き締めるが助六のような口元になってしまい、よけいにおかしな顔になる。しかし褒めれらてニヤケてしまうなんて、なんて半人前なんだろうか。これは弱っているのかもしれない。風邪を引くと抵抗力がなくなるのだな。「そんなものには負けないぞ」と心に誓う。もっと追い込まなければ駄目だ。もうすっかり風邪だって良くなっているのだ。
■久しぶりに又江原さんとオンワードのミーティングをする。立てた予定をカレンダーに書き込んでみると改めての時間の無さにおどろくを通り越して、むしろおののく。うひゃひゃひゃひゃと。それはもう笑ってしまうくらいだ。「何を、学生風情が」と思われるかもしれないが、なんだかよく分からないがやらなければならない事項が多いのだ。「時間よ止まれ!」などと念じるゆとりもない。
■帰りの電車の中で先ほどのカレンダーに残りの予定を入れてみると、ますます笑えてきた。それでちょっと胃が痛くはならなかったけれど、お腹が痛くなってきた。仮病か。まずは忘れることから始めようと思いイチハラヒロコの『雨の夜にカサもささずにトレンチコートのえりを立ててバラの花を抱えて青春の影を歌いながら「悪かった。やっぱり俺・・・」って言ってむかえに来てほしい』をパラパラと読んでみた。作品の解釈は一つではない。やはり個人のバイアスというものは大きく作用するもので、時おり表れる言葉の節々が琴線に触れまくり。抉られるものがあり、よけいにお腹が痛くなった。うーん、これは。「あんまりご飯を食べてないからいけないんだ」ということに気付いて、鳥むね肉とモロヘイヤ2束を買って帰る。鶏肉とモロヘイヤを刻んで炒めてニンニクも入れて、ある程度のところでお湯とコンソメブイヨンと塩を入れる。胡椒も少々。スープを作った。見た目はあまりよろしくないがこれは僕の大好物だ。とくにこれからの季節には良い。そしていつも食べ過ぎてしまう。2リットルくらい食べ過ぎてしまう。いったい何人前か。まるで犬だ。
■関係ないが、「大好物」という響きには「第三者が作ってくれるもの、或いは当初は誰かが作ってくれたもの。」という感慨を強く受ける。だからはじめから食べたことも無いのにいきなり自分で作って己で食して「これは大好物だ!」という自己完結加減はこれはもう馬鹿者っぽい何かを感じずにはいられない。そうでなければ自分の作ったものを「大好物」だと言えるなんてどれだけの料理上手かだ。いや、やはり馬鹿者だろう。さらに加えれば、哀愁を帯びた馬鹿者だ。
■今日もたくさん食べ過ぎて、それで結局胃がもたれた。もたれたので課題は朝にやろうと明断してとりあえず寝むることにした。いきなり負けている。そしてこの見通しの甘さ。いつになったら1人前か。
(05:18 07/05 2007)

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