2010年12月

竹内宛メール

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ファッションのマルチチュード

BFBの修了Show

明星大学造形芸術学部

文化ファッション大学院大学

BFGU夏季合宿



Marlene Dumasハイレッドセンターの本The Idiots Are Winning.

身体/カラダ/空だ
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Nov. 25 sun. 『七回忌』
■25日の甚太郎の七回忌には行けなかったんだけれど、何人かの方々から報告や当日の様子を聞けたのでよかった。「七回忌」の発音は「ナナカイキ」ではなくて「シチカイキ」っていうんだってな、知らなかった。
■甚太郎の家は栃木県にあるのだ。佐野ラーメンのところに。Aさんの日記に載っていた佐野ラーメンの写真が異常に美味しそうに見えるんだけれど、あの佐野ラーメンは食べてないんじゃないか俺は。こんど行ったときにおじさんに連れて行ってもらおう。
■年に一度、この時期に甚太郎の家に行く時に個人的に楽しみなのがYくんが働いている『花長』という和花屋さんの花だ。『花長』はとても有名な和花屋さんで、値札も付いてないような花屋さんで、つまり、そういう人々が買いに来るような所なのだ。普段は花を高いお金を出して買えないけれど、このときばかりはみんなでお金を出しあうので結構良い分量の花が買える。それで和花は、枯れてもすてきなんだよな。今年の花も見に行きたいなと思う。

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(23:26 11/26 2007)

Nov. 18 sun. 『そこにはとても素敵なふたりがいたんだ』
面々
■先日の日曜日のこと。友人の結婚式はつつがなく無事に終わったのだが、そこでとり行われた自分たちの余興がいったいぜんたい、つつがなかったかどうかというのは謎である。
■岡山から駆けつけたHぐちくんというのがいて、彼は、まあうち大学の、エース級のとんちんかんな男なのだ。その彼が扮する「江原さん」がお客さんに向かって「だめな感じのスピリチュアルカウンセリング」をする、というような場面があるんだけれど、彼はよりにもよって、あろうことか丸の内署の署長さんに向かって、カウンセリングをしてしまったのだ。カウンセリングがどうのこうのの前にもう、まず人選の時点でだめだろう。相手は、なんといっても丸の内のお偉いさんなのだから。しかも、よりにもよって「あなたはピンクだ」と、言い放ったのだ。新郎によれば、普段は、とてもこわい人らしい。それを、あんな威厳のありそうなおじさんをつかまえて、あろうことか「ピンクである」と。「ピンク」ってなんだよ。彼はいったい何を想って「ピンク」だと言い放ったんだろうか。幸いなことにお酒もまわっており、皆が笑っていたので良かったが。けっこう冷や冷やさせられたよ、ほんとうに。まあいい。それにしても、丸の内の署長さんと、Hぐちくんという組み合わせだ。それは、絶対に接点の無いはずであろう二人の、未知との遭遇であった。
■いろいろあったけれど、やってよかった。やらない人がいた、ということも良かったんだろう。作用と反作用だ。客観的にも見てもらえたわけだし。終わってみればすべて花だ。あらためて分かったことは、思い出というのは、作られるものではなくて、作るものだということ。しかし、来月の電話代は高くつくんだろうな。


(00:07 11/19 2007)

Nov. 17 sat. 『複雑さへ―勇気ある者、好奇心を持つ者、そして臆病者のために』
■結局のところ、火曜日からの今週は、ずっとやってしまった。ずるりと。体の中のバイオメカニズムみたいなものが崩れているような気がする。気合が足りないということでもあるが。日曜日には一気に直してしまわないとまずいが、苦虫を噛み潰したような気分が木曜日から続いていて、そういうのも、とても困る。
■前回にも書いたけれど、最近何人かの人と話をしていて、やっぱりシニシズムの問題が、どれについても大きくのしかかっているように思う。そういうことに関して、ある<下り>を思い出した。

『1968年』
■宮沢章夫さんの東京大学での講義が編纂された本『ノイズ文化論』の中に、スガ秀実さんの著書『1968年』からの連合赤軍に関する下りの一節を用いた箇所がある。そこには、

連合赤軍による「総括」と呼ばれたリンチ事件は連合赤軍が革命の拠点を山中に潜伏し、その山中における訓練の過程で何人もの「同士」たちを殺してしまった事件です。ここで不可解なのは、まだたいして闘争もしていない段階の、訓練の過程で事件が起こったことです。

「革命のためには、たとえば一・五メートルの幅がある川を飛ばなければならない。たしかにジャンプする力は必要だが、訓練の過程というのは、川の手前でジャンプできずに死んだことを意味する。なぜなら、彼らには、その川が千尋の谷に見えたからだ」

と書いて、スガ秀実さんは本書の最後にこう記しています。

確かに、われわれは二メートルを跳べる「革命」の力量があるにもかかわらず、それが千尋の谷である為に、一メートル五十センチの幅の谷の前で躊躇していると言ってよいだろう。われわれの潜勢力にとって、本当は、五十センチの差異など存在しないのである。にもかかわらず、われわれは、その存在しない差異にとらわれてしまっており、そのことがシニシズムを生んでいる。

(中略)本当は、われわれにはものを変える力があるはずである。ここでは左翼的な文脈で「革命」という言葉が使われているけれども、それだけじゃないと思う。あらゆる表現の領域においてもそうじゃないだろうか。
<もの>や<こと>を変革する力を、人は潜在的に持っているはずだ。ところが二メートルを飛べる力があるはずなのに、そこに千尋の谷があると勝手に解釈し、その手前で躊躇してしまう。それが「シニシズム」という態度となる。
シニシズムというのは、正しくは「冷笑したり、無視する態度」のことですが、この文脈で考えると、「なにも新しいことがないからすべて諦める」というふるまいだと解釈できるでしょう。
たとえば、連合赤軍事件だったら、彼らは訓練中に十数人の同志を殺すという悲惨な事件を起こした。その「谷」の前で躊躇したことによって、最悪の事態を招いた。<いま>という時間を覆っている閉鎖―われわれがいまだとどまっているシニシズムがあるとしたら、その程度のものなんだと。ほんとはジャンプできるはずだし、そこから向こう側に渡ることがきっと可能であるにもかかわらず、それが飛べない。「谷」みたいなものを見てしまうから飛べない。「谷はないんだ」と思えばきっと飛べるし、人はきっと、そのポテンシャリティはあるんです。

と書かれている。本当は、われわれにはものを変える力があるはずである。それを無にしているのは他ならない自分自身であり、そのことからの回避よって勝負を避けているだけである。それを他のものの<せい>にしているだけだ。そういうことに託けているだけだと思う。ここでのシニシズムとは、発する側がどう取るかではなくて、受け取り手がどう捉えるかということだ。それは自分だ。複雑なことはなにもない。この点を忘れてしまってはいけない。だからこそ、頑張らねばならない。頑張りましょう。ポテンシャリティはあるんです。
■それにしても、オシム監督が心配でならない。
(04:11 11/18 2007)

Nov. 13 tue. 『やっちまう』
■おきたら昼すぎだったのだ。きのう、朝まで本を読んでいて、気付いたらいつの間にか寝ていた。寝た、というよりも、落ちていたという表現の方が正しいな。1限の『地の目とバイアス裁ちのシャツの違いとそのパターン補整』は絶対に聴きに行こうと思っていたので最悪な気分だ。いやになる。仕方がないのでもう学校に行くのはあきらめて、しばらく家で課題をやってから、Hくんから送られてきた結婚式の余興の内容をまとめてみるが、全然まとまらない。というか意味がよく分からないんだよ。あとでいっかい訊かなければだめだ。もう今度の日曜日だからぜんぜん時間がないが、いったいこんなことで大丈夫なんだろうか。危険すぎる。皆のやる気に期待したいところだが。不安は募るばかりだ。調べ物があったので、夕方になって久しぶりに地元の図書館へ行く。久しぶりすぎて勝手がわからない。もうほとんど終わりそうだったが、滑り込みセーフで2冊借りる。八百屋によって帰るが、八百屋って、なんであんなに安いんだろうか。よる度にそのつど驚かされる安さなんだよな。

■夜、ある人のこれからについて話しをしていて、シニシズムについて考える。この年頃になると、ほんとうに、悩むべきことは多い。現実的なこと、社会的なこと、いろいろな問題と直面せざるおえない状況にあるのだ。だから誰もが、みなそれぞれの悩みがある。でも、どんな問題であっても、そういうときにこそ、シニシズムということで自分を肯定してしまうという隘路には気をつけなければならないと思うのだ。つい、うっかり、そういうことで忘れてしまう、もっと大事なことを見落としてしまうのだ。自分もまた然り。他人に投げかけた言葉が、自分にもおおきくひびく。

■フランスから帰ってきていると聞いていたKくんにメールを出すと、もの凄い速度で返事が返ってきたので驚いた。風邪を引いているそうだが、相変わらずの文体に顔を思い浮かべる。今度会うときが楽しみになる。それからHくんと余興の内容の打ち合わせをして、配役がけっこう難航したけれど、どうにか、なんとかなるかもしれない。ならないかもしれない。それをまとめていたら朝になってしまった。外ではカラスが鳴いている。俺はきょうは大丈夫なのか。授業がないからよけいに大丈夫なのかと不安になる。課題はたんまりとある。

(06:17 11/14 2007)

Nov. 12 mon. 『殺す前に、相手をよく見る』
■セキュリティということに興味を持って、いくつか読んでみた本の中に『放送禁止歌』というのがあって、そのドキュメンタリー番組の『放送禁止歌』をYOU TUBEで見ることが出来る。番組は60分という枠の中で収められているので概ね把握しづらい内容の箇所もあるんだけれど、本のほうは取材するにあたっての様々な経緯が細やかに書いてあるためにもう少し分かり易くなっている。いま、「イキサツ」と打って漢字に変換したら「経緯」と出た。これで「イキサツ」って読むのか、これでか。いままでたまに「~というケイイやイキサツといったものがあります。」などと言っていたことがあるけれど、これはまったくの同じ言葉を繰り返していたということになるな。知らなかった。ただの莫加じゃないか。よし、これから直そう。そして話は戻るけれども、取材後の話や展開も載っているので番組よりも本の方がより良いと思う。<放送禁止>にしてしまうということの、その背後にあることが何であるかということを忘れてしまい、あることとないことの見境もつかなくなる。面倒くさいことを取っ払って、それで日常に多様性なんて望めるのだろうか。こういうものを読むと自分が考えていることや作品として作っていきたいと思っていることはやっぱり作らなければならないんだろうなと思う。そしてその必要性もある。と思う。しかし、だとしたら、これから進もうとしてるべき道を間違えてるかもしれないない。とも思う。そういうことで悩んでいる矢先にまた『放送禁止歌』を読んで面食らう。ああ、駄目だ。問題が山積だ。悩んだまま、迷ったままでも時間はすすんで、流れていく。流されてしまうまえにきちんとしなければならないんだ。もっと考えろと思う。がんばれ、がんばれ。余裕などこれっぽっちもない。

■<自分が考えていること>を整理された言葉として、またその物事の整合性をつける見立てとして考えをまとめるのに<本>は確かに役に立つ。そういった<考えるための準備>の為に読む必要がある。福沢さんも言っていた。だから、楽しくなくても、意味があまりよく分からなくても、イヤイヤでも読む。が、同時に混乱も招く。そういう陥穽がある。アントニオ・ネグリの『帝国』という本を読んでいて、生意気にも何か少し違和感を覚えて、途中で、パオロ・ヴィルノの『マルチチュードの文法』を読んでみる。それからまた途中で、ネグリの『芸術とマルチチュ―ド』を読んでみて、そのあいまを縫って『資本論』を読む。難しい箇所に至っては読んでいても記号のようにしか見えないから、だんだん頭の中の疑問が解き明かされるどころか、むしろ、混乱してくる。混乱しつつぼんやりとしたこまかい問題点の節々があたまを覆う。それは、どんよりとした、グレーの雲、というか、スライムのような感じだ。そういうのがあるんだけれど、それが具体的に、全体的に結びついてこない。まるで集約してこない。それでまた途中で違う本を読んでみるのだが、ぐだぐだの状態だ。たとえば、石井達郎さんの『衣装のセクシャリティ』を読んでいたときに出てくる、フロイトの見解に端を発した「クリトリスかワギナか」という性感帯論争に至っては、一体これが、なんの役に立つんだろうかと、首を傾げてしまった。だからどうしたんだ、と。でもね、何か役に立つんだよ絶対に。あ、あの時の!、という瞬間が必ず来る。それが10年後かもしれない。だからいまのうちに読んでおけということなんだろうが。はやく読まないと返却期限がどんどん迫ってきているのだ。だけど、あんまり最近は読みたくない。読んでて頭が痛いんだ。それでも粘って読まなければ。何を書いてるのかだんだん分からなくなってきたけれど、とにかく読むためのハッパを自分にかけているのかこれ。そういうことにしてしまえ。石井さんの本は『衣装のセクシャリティ』を流し読みして『男装論』を読んでいる。その間にすこしボガトゥイリョフの『衣裳のフォークロア』をまた読んでみているけれど、なんだかちょっと記号論に逸れていきそうで恐い気もしている。でもこういうパニック状態の頭が、あるときピタッと来て、落ち着く瞬間があるから、そのときは一番興奮するし、作品にダイレクトに来るので、その時が来るのを、切に願うばかりだ。

■『男装論』で思い出したけれど、そういうことと近い内容のことを、ちょっと前に友人のKさんからメールで頂いた。

大悟のコンセプトには、性差がもっと強調されても面白いよね。大悟自身が自分の性差に於いて疑問があるなら、なお良いよね。表現にしっかり反映されるからね。

じつを言うと、BFBの時に発表した『身体検査』というシリーズの中で『シス・トランスジェンダー』という作品を作っている。これは、男女間の性差において言及したもので、<文化的側面に見た男女性差の往来>について制作したものだ。ちなみに<シス(cis)>というのは<こちら側>という意味で、<トランス(trans)>というのは<あちら側>という意味がある。そのシストランスという言葉と、トランスジェンダーを掛けている。行ったり来たりするんだよ、男と女が。それが<何処>へなんだ、という話。やっぱり『身体検査』のことも纏める意味でも今度書かないと駄目だ。それで、自分自身が<性差>についてどう考えているのかといえば、興味はある。
■この写真は前に年賀状で使ったものだ。場末の香りがプンプンだ。だからなんだといわれれば、それまでなんだけど。左下の<オンワード>は、とくに意味はない。雰囲気だ。どうでもいいが、年賀状ではこれにプラスして、右上の方あたりに縦書きの艶っぽい文字で「面舵、いっぱい」とも入っていた。艶っぽいところが肝心だ。しかしいま改めて見て、左手に<ゴムひも>を嵌めちゃっている辺りが、僕のツメの甘さを如実に物語っている。ゴムひもって物語るんだな、初めて知ったよ。それで、個人の問題でいってしまえば性を越えたいという願望が少しある。なんとなくだが、髪を伸ばしている理由もそこにあるのかもしれない。そんな気がするのだ。女になりたい、というわけじゃなくて、男にも女にもなりたくない、という気持ちがうっすらあるんだと思う。ような気もする。その辺が実際なんだかよく分からないから、実験するしかない。だから、女装もしてみたし、2002年の時はためしに女装してワールドカップを観戦しに行った。気分的には戦っていたな周りの視線からも。その頃セクハラ問題とかも騒がしく言われていたので、男は男の、女は女の係員が調べる手筈になっていたのだ。同時にセキュリティもすごく厳しくて、検査で、身体もセンサーをあてがって調べられるんだけど、係員は僕を見て、少し考えてから「どうぞ」といって女性の方の列に招き並べさせられたことを、たったいま思い出したぞ。そうだ、あのときの係員の決めあぐねた神妙な顔といったら、なかったな。もっとも、僕はそんな心遣いのことなんてまるで考えてなかったので、ぎゃくに女の列にならばされて恥ずかしい目にあったな。女装して気付くことは、自分は確実に男であるということだ。男を再確認する。普段は無頓着な野性的な皮膚感覚が呼び戻される。初めて歌舞伎町を女装して歩いた時は、本当にヒリヒリして、皮膚感覚が鋭くなった。まるで、戦場の気分だったのだ。マルセル・デュシャンが女装するのを後になって知ったんだけれど、それを初めて見たとき「分かるぞ、その気持ちが。」と、コンセプトなんかすっ飛ばして、妙に納得してしてしまった。

■そして今年の冒頭には、来年は何をつくろうかと考えていた時のテーマに、『女は女装する。』というものがあった。何人かの人に大まかなコンセプトを説明してみたら『女は女装する。』の方が評判が良かった。良かったので取りやめる事にした。もう一つのテーマの方が首を傾げる者が多かったのでそっちの方に判断したのだ。それは『姿勢の姿勢』でもないテーマのものだった。そのテーマを5月頃に先生に話したら、「この学校ですることではないのではないか」というような意味のことを言われた。ファッションの大学院としての、そういう意味での学校としてやらなければならいことがある。そいうのも分かる。だけども、そもそも僕は自分で分かってしまっていることをやりたくはないし、皆が同意できることをやるのであれば『女は女装する』を取り止める必要性もない。そういうことと、さして違いはない。だからこそやらなければいけないという意義をすっかり忘れてしまってるんだよな。そういう意味ではこのピンチは、本当はチャンスなんだよな。じゃなければ、いったいなにがやりたいんだ俺は。他の人が「アート的なことがやりたいんです」とかいうことを訊くと、「じゃあ、あなたにとってアートとは何なのですか?」と訊きたくなってしまう。「批判的なことがしたいんです」とか言われると、「あなたにとって批判するということは一体何なのですか?」と訊ねたくなってしまう。そういう、他の人へ対する苛立ちが、自分への苛立ちの表れなんだろうなと思う。<やる意味>が見えないからこそ、他者にとって分からないからこそ、そういう意味で<やる意味>というのはしっかりと見えているんだ、ということでもある。その時点ですでに<意味>は発生している。

「思考することとは、それ自身の特異性にしたがって到来するものを受け入れるということである。すなわち<到-来〔ad-venir〕>へと開くことである。芸術作品が行っていることは、これをおいて他にない。芸術作品は、世界へとやってくることによって、この作品以前には想像不可能だった色彩の―音の、あるいは語の―戯れを現存させるのだ。このことは、とりわけ抽象化が創出されて以降の現代のアートについては、真理である…」。

リオタール『非人間的なもの』より


■結婚式の余興もあるし、他にもいろいろある。あるんだからイライラしてもダメだ。何の役にも立たない。苛立ってなんかいられないけど、それもこれも、全部の自分の問題である。よーし。いまから、笑う練習をしよう。ニッコリとね。
(02:10 11/13 2007)

 Nov. 06 tue. 『祭が終わって』
■先日に書いた「A.F.ヴァンデヴォルストがヨーゼフ・ボイスのことを引っ張り出してくるその辺りが前からイマイチ好きではない」ということの理由をただ「なんとなく」と書いたけれど、やっぱりそれだけでは歯切れが悪いのでかんたんに書いておけばこういうことである。ヨーゼフボイスのいうところの<社会彫刻>という考え方である

『人間は誰でも芸術家であり、自分自身の自由さから、「未来の社会秩序」という「総合芸術作品」内における他者とのさまざまな位置を規定するのを学ぶのである』

と、A.F.ヴァンデヴォルストの物つくりに対するスタンスに方向性としての共通点があまり感じられないからだ。それよりも表層的なことでの共通点に起因しているような印象がどうも僕の頭の中で優先してしまうからだ。でも逆に<社会彫刻>という考え方からすれば総てを肯定することも出来てしまうと。それに僕こそがそういったことの表面性だけを見ているだけなのかもしれない。人の勝手といわれればそれまでだし、ごたごたいうのもなんだけれど、僕はなんとなく、そういうところに引っ掛かりを感じてしまう。

■ところでこの写真は今年の文化学苑の文化祭のショーのものだ。新聞にも載っていたけれど、オーストリア貨幣局の協力を経て「一億三千万円」分のゴールド硬貨が使用されている。実際に観には行かなかったのでそれをどうのこうの言えないが、なんともけったいな作品だ。こういうのを、ブンカは毎年毎年学校全体で取り組んでやっている。学校の威信を示すためなんだろうが、力でぐいっと見せつけるのだ。その力の入れようといったら、ファッションという軌道からは見事なまでに逸れてしまっているのだ。そして毎年観た者は、二つの意味で「凄いな」とつぶやいてしまう。圧倒的な作品と、その方向性の逸れぶりに。でもこれがブンカの生きる道なんだろう。もう引き下がることの出来ないブンカの意地があるのだろう。しかしいったい、どこへ向けて発信しているのだろうか。それは、宇宙に向けて発信しているのだ。そういう意味ではこれもまたよろしいのではないか。

■文化祭が終わってからの振替休日中は、どうも頭がぼんやりとしていた。本ばかり読んではぼんやりとする。課題が溜まっているんだけど、そういうことは文化祭の準備のごたごたですっかりお座なりになっている。外に出たい気もするが、雨が降っていると気分が億劫になってしまう。ぼんやりとしてとりとめのないさまは、だからつまり、「ぼんやり」としてしまわなければならないような考えるべきことに突き当たっている。本を読むということは、読んだぶんだけ考えなければならないことが増える。分かることも増えるけれど、それ以上に分からないことが沢山増える。あくまでも体験ではないからな。読んで知っただけの知識なんていうのはたぶんそのおまけで、だからやっぱり、本当のことは自分で考えなければならない。頭で考えて。身体で考える。

(02:19 11/07 2007)

 Nov. 03 sat. 『A.F.ヴァンデヴォルストをみにいく』
展示風景

見学をしている

展示風景

■土曜日は六本木へ。Pハウスという所へA.F.ヴァンデヴォルストのプレゼンテーションを見に行った。A.F.ヴァンデヴォルストというのはアン・ヴァンデヴォースト(女性)とフィリップ・アリックス(男性)の二人からなるベルギーのデザイナーズブランドだ。彼らとのディスカッションもあるはずなのだが。それにしても、彼らが来ない。二人の到着は予定よりも遅れていた。前夜にこの場所でパーティがあったらしくて、飲みまくっていたんじゃないだろうか。きっとそうだ。二人が来るまで展示を見ながら待っていた。展示形態は病院のベッドを使ったインスタレーション的な手法で、これはデビュー2シーズン目のコレクション発表の時と同じシュチュエーションだった。今年が10年目に当たるそうだ。デビューしてからもうそんなに経つのか。最初の方は硬いような印象のある、たとえばドイツ軍とか、そういったもののような印象を受けたが、ハイファッションの方も言っておられたが最近はたしかにやわらかい素材の印象を受ける。でも僕はこのブランドのマークについて(赤十字の中抜きのマーク)、ヨーゼフ・ボイスのことを引っ張り出してくるあたりが前からイマイチ好きではないのだ。あの硬いブランケットのような、軍服ウールのような素材を沢山使ってそのようなボイスとのイメージを関連付けるようなこともなんとなく好感をもてなかった。なんとなく。ただなんとなくでしかないのだが。
■ディスカッションが始まって 、彼らはいきなり学生時代の二人の馴れ初めから話しだした。そんなところからはじめるのかよ、という話である。まあ、でもそれもブランドの経緯として大切な部分だというのなら仕方がないので聞こうじゃないかということで、最初はまじめにメモを取っていたけれど途中で取るのを止めてしまった。長いのだ。話も長いがそれが通訳されて耳元に届くまでが。長い。そして通訳の方が繊細なお声の方で、それがまた聞き取りづらい。いま考えるときちんとメモを取っとけば良かったのではないかと若干思いもするけど、でもあとで見返してみても

「それからフィッリップは1年徴兵へ」

とか、かなりどうでもいいことを取っていて、これはやっぱりどうでもいいことだろうと思った。話が長すぎて途中コックリと寝ている者もいたが自分たちのアーカイヴに対する視点というのも聞けたので(これが病院のベッドのインスタレーションを再びやる理由でもあり)そういうのは聞けて良かった。フィリップは、こちらが油断するとすぐに二人のラブロマンスを話し出すのでそこら辺については注意しなければならないなと思った。

アンとフィリップ
■いくつか質問のやりとりの中で気なったことがあった。A.F.ヴァンデヴォルストといえば昔からよく噂として聞くのが彼らが金持ちだということであったが、きょうの話を聞いている限り<直営店>を持っていないらしい。ちょっとこれは信じがたいので僕の聞き間違いかもしれないけれど「今後は直営店を作りたい」というようなことを言っていた。これについてはあとで調べてみようと思う。あとは、<コレクション>ではショーピースとしてのみ作られる服はおおよそ全体の1パーセントだと言っていた。つまり殆どの服は、数は違えど量産に繋がっている。渋谷や原宿の若者の服装については「内側にあるものを発散させたいような、そういう衝動のようなものを感じる」という意味のことを言っていた。あとなんだったかな、忘れてしまった。やっぱりメモを取っておくべきだったかもしれないな。あとこれは前も誰かが言っていたけど、良い工場を押えられるか、ということがとても重要だとも言っていた。そのためには行儀良くおしゃまになんかしていられる場合ではないと。二人は仲が良かったが、話の経過の中でフィリップよりもアンの方がその関係性の中で<チカラ>を持っているなという印象を受けたので、参考までにそれぞれの兄弟構成を質問してみたかったけれど、タイムアップでそれは叶わなかった。あとそうだ。ひとつ思い出したんだけれど、ブランド名の由来の話でフィリップは「アリックス」という自分の名字が好きではないというようなことも言っていた。こんなことはどうでもいいな。
■アンの着ていたクラシカルな大きな黒いコートについて、最後の終わった時に「それはメンズなのか、それともオーバーサイズのレディスなのか」と訊いてみると、それは後者の方であった。そのサイズ感とバランスがとても良かったので賛辞の言葉を送りたかったのだが良い外国語が浮かんでこなかった。アントニオ・ベラルディ譲りの「アメイジング!」を使おうと思ったけれどそれは言いすぎなので、親指を起てておいた。


(02:24 11/04 2007)

 Nov. 02 fri. 『ベルギー大使館へ行く』
■面接のようなものを受けた。ものすごくダメな感じですごく落ち込むような気分になってしまった。恥ずかしかったし本当にしょうもない。きっとこれは。きっとこれだけは穴があったところで入っても拭い去れない恥ずかしさなんだろう。まあ、目指してるわけでもないから仕方がないんだけど。あーあ、つくづく自分が嫌になるよ。でも違うジャンルの方と話をするのはやっぱり刺激になる。それになりよりも楽しいのだ。いつも余計なことを喋りすぎてしまう反省点はあるが、また考える材料なるしそれはいつも貴重な経験として体の中に蓄積される。ジャンルがどうのこうのに限らず、他人の話は本当に宝だよ。

ベルギー大使館

■金曜日は四谷へ。ベルギー大使館別館に行ってきた。Mくんに誘われて、コルトレイクリネンというベルギーの糸を使ったいくつかのブランドの合同展示会があったのだ。コルトレイクリネンは力が抜けた中に優雅さを感じるようなやっぱりとても魅力的な風合いをしていて、それを使ったブランドの展示はやはりどこも完成度が高かった。それで表側の素材感を損なわないように、裏地を貼るにしても良い素材が使われていた。だからやっぱり値段も高くなる。17世紀フランスの農民的なイメージなのだろうか、労働者的なものと西洋の古典的なものを融合したようなデザインというのがいくつかのブランドにおいて共通した印象があった。良い風合いを持ってはいる、が個人的には着ないだろうな。自分で着るにはああいう風合いのもはなんだか気恥ずかしく感じてしまう。でも素晴らしい服でした。普段自分が使わないし着ない、という意味で素材感の勉強にとてもなった。ちょうどこの日がレセプションパーティーだったので、いろいろと食べ物が振舞われていて、僕たちは展示会見学もそこそこに、中庭で飲めや食えやヤンヤとしていた。さすがに「歌えや」とまではいかなかったが、声はかなり大きくなっていたような気がする。肉とピクルスの串刺しとかキッシュとかがとてもおいしかった。チョコレートも。もちろん美味しくないわけがない。ベルギー万歳。
■話に夢中になっていたらいつの間にか会場がお開き的な様子になっていたので、となりの本館に足を運んだ。となりではなんともおかしなパーティーをやっていた。外人がいっぱいいて賑々しかった。バンドが演奏していて、コンテポラリーダンスもやっていたようだが僕らが行った頃にはすでに終わっていたようだった。写真の2枚は本館の方の模様なんだけれどイメージとしてはもっと賑々しかった。どうもこの度、ベルギー大使館をぶち壊すようでその為のパーティだったような感じだった。いろいろな展示がしてあったけれど、どうにもこうにもこれが何だかよく分からないのだよ。酔っ払っててあんまり興味も湧かず、むしろ外庭の水瓶に入っていたスーパーボールの弾み具合の方が興味をそそられた。外人がネーちゃんを口説いたりしていた。新しく建てられる大使館の模型を見たけれど、僕は今のほうが好きだったな。


(01:10 11/03 2007)

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