2010年12月

竹内宛メール

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ファッションのマルチチュード

BFBの修了Show

明星大学造形芸術学部

文化ファッション大学院大学

BFGU夏季合宿



Marlene Dumasハイレッドセンターの本The Idiots Are Winning.

身体/カラダ/空だ
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May. 07 wed. 『ダンスと衣裳とYシャツと私』
アゴ飛ばし競技
■それで肝心のダンスの話です。新木場にある文武館というところでの稽古を見てきた。写真は、アゴを飛ばしているところである。自分のアゴを抱え、助走をつけて砲丸投げのように飛ばす。飛ばすというか、ぶん投げる、の方がニュアンスとしては近いだろう。左側手前の人はいままさに助走体勢に入り、その後ろに重なっている人は、まさに投てき直後の体勢である。一番右側の人は突っ立っている。神経を集中して、投げるべき前方を見据え突っ立っているのだろうか。そのとなり、右から二番目の人はバランスを保ちながら構えの体勢を段階に入っている。これは、富士山アネット主宰の長谷川さんの創作パートだ。これ全然関係ないかもしれないけれど、この写真で見た場合、突っ立っている人の体(てい)は周りの動作との関係性からその状況をアフォードされているけれど、もしかしたら全然違う運動を一人だけしているのかもしれないと受け止めることもできるかもしれない。とか、段階(目的)に「入っている人」と「出ている人」と分けてみてとることもできるかもしれない。とか、あれはファウルだろうとかかなり適当なことばかり無責任に判別しながら見学していた。長谷川さんは誰かに個別指導していた際に、投てきの状態が最初はなんだかしっくりと来ていなかったみたいで「もっと身体の前で孤を描くように」とかいうようなアドバイスしていて、そのアドバイスが功を奏したのか「だんだん良くなってきた」と投げている人は言われていて、確かに、見ているこちらも「だんだん良くなってきたな」と思える身体を上手に使ったアゴさばきになっていった。さすが考案者だけある。それでその考案者は、身体から出たエネルギーがどのベクトルに向かって放たれているのかということにえらく神経を使われていた。

■5時間くらい見学して気付いたこととしては、身体がほんとうにみんなバラバラだということだ。大きさとかそういう意味ではなくて、バランスとか運動状態みたいなもの差異が大幅にちがう。たとえば、関さん(女)は(彼女自身の考案した振り付けを見ていたから余計にそう見えたのかもしれないが)ひとつひとつが安定したしっかりとした動きで、「訓練された身体」というものを感じる。それに比べて長谷川さん(男)は、関さんとは逆の身体、訓練されていない身体を持ち、なおかつその動きはチャップリンとかの系譜に属するようなおもしろさがあり、だから見ているといちいち笑ってしまう。これはまた特別で非常に興味深い。あんまり詳しいことはよく分からないが、よく言われているような「現在的な身体」の持ち主ではなかろうかと思う。岩淵くんは動物的な要素とかせっぱつまった印象を感じる「生々しい身体」だ。原田さん(男)は動きの、とくに動作の最後で少し女性のようなシナみたいなものを「余韻として感じる身体」だ。ちなみに男子全員とも、もともと演劇畑の出身だそうで、だから従来のダンサーというものとも違う特徴を持ち合わせているのだろう。もっとも、「従来のダンサーってなんだ」と言われても自分もよく分からないのだが、クラシックとかバレエとかそういったもののことをここでは指している。尾形さん(女)は、関さん曰く「一番動きのふり幅が広い」と言われていて、僕自身は一部の限定した動きしか見ていないのでその辺はまだよく分からなかったけれど、反射神経とか運動神経がとても良さそうな印象を受けた。「スポーツな身体」といえばいいのかな、身体の軸がしっかりしているように見えた。ミウミウさん(女)は弱さを感じる「女子の身体」。それもまたひとつ特徴のある象徴的な身体感覚であると思う。松本さん(女)は、これは僕のニュアンスとしての言葉の使い方だから間違っているかもしれないけれど、動きの最後に流れるような印象を受けた。でも女性的なやわらかさというものとはちょっと違う。軽やかさもあるんだけれど、わりとしっかりしている印象。なんだろうか。そのときは見ていていったいなんだろうかこの動きはとピンと来なかったが、後日群々の日誌を見て新体操をやっていたと書いてあって、へえそうか、なるほどなと思った。そういうそれぞれの身体の違いが上手くダンスの中で差異になり、あるいは掛け合わさって相乗効果として表象する何かが生まれればおもしろいだろうなとおもう。
■それぞれの趣味思考も違ううえに持ち合わせている身体も違うから、必然的に個人が創作してくるパートもとても違う。たとえば関さんは、現実的な動きをモチーフにしながらイメージの世界を創り上げていくという手法であり、だから元の動きが何なのかというのはべつに分からなくてもよいもので、運動自体が純粋にそこに存在する状態であるといえる。そうなってくるとたとえば通常の衣装で考えるならば、現実世界に則した造形でなくてもなにも問題無いだろう。が、たとえば先ほどの長谷川さんの創作パートのアゴ飛ばしなどは、あらかじめ見る側の人間が「砲丸投げ」とか「自分の顔は投げない」という知識を知っているからこそまず最初にその運動状態が成立するわけで(もちろん、その前提が無くなったときの純粋な運動としての是非は、それはそれでまた存在するわけだけれども)だから、これが完全にイメージの世界になってしまったときに果たしてそれが見えてくるのかという問題が生じるともおもうのだ。早い話が、成立してしまっては困るということだ。舞台の特殊性というのは、そこを日常と切り離して見てしまう事ができるという点で、だから例えば人が死んでもあわてない。その匙加減の効果を担うのが舞台美術であり、音楽であり、衣装だろう。純粋運動として成立してしまった時にその醍醐味が薄れる可能性があるとなれば、やはりそこには衣服に日常性を孕ませる必要性があるんじゃないか、とも察してしまう。もちろん、ここからどのように変わっていくのかということもあるので一概にはなんとも言えないが。日常との差異から発生させるというやり口のおもしろさを見せるという点では原田さんも同様で、ダダ的な、とにかく予想する動作を裏切りながら進めていく方法をとる。原田さんの場合はそこに別々の動きをしていたグループがくっついたり離れたりするという動作が加わることで、なんだか訳がわからないがそこにリズムが生まれ、より構成的におかしみを見せる物だった。でも、この原田さんのパートからヒントを得るとするならば、安直な言い方でいってしまえば、逆逆という手段を用いてもいいのかもしれないな、などと考えてしまうのだ。衣装の効果をあえて切り離すという手段をとり、成立しない状態で成立させるという方法が比較的現実的なやり方かもしれない。

■それでじゃあ何を作ろうか、というところでやっぱり気になる点が、「なぜダンスで衣裳を着るのか」ということだ。踊る人たち自身がそれをどのように捉えているのか。たとえば、関さんはイメージした世界を構築する要素としてより近づけるために必要だと言う。あるいはミウミウさんが以前に参加していたカンパニーでは、「あんまり着るものまで考える手が回らない(だったかな、詳しい言い回しを失念)」とのことで全裸で踊ったりしていたという。しかし全裸というのものは、これは見ている側としては、強烈な印象を受けるし、そもそもいったい全体どうなんだろうかそれはと思ってしまう。逆に主張を感じるだろう。まあだけども、見慣れてきたところで全裸効果がいったい何処へスライドしていくのかは興味深いところであるのだけれど。それはおいておいて、だからやっぱり単純にまずは「全裸であるとう主張」を消す所から始まっているのではないか。ほかに言っていたこととして、服の上から触るのと服の中から触るのとでは違う。とも言っていた。なるほど。それに加えて、たとえば服の中に手を入れたりと所作の選択自体も増える。それでやっぱり無視できないのは身体と布の間に孕む空間だ。それがどう作用するのかを絶対的に考える必要がある。そして先ほども出てきたが、現実的な服、いわゆるふつうの服ということも、舞台の上では大きな記号的要素がある。入り口としては、現実的な要素か非現実的な要素か、というそのどちらかをまず考えるところから入ってみるのがいいのかなとこの時点では考えていた。
■それにしてもドイツやオーストリアで見てきた舞台の中では、演劇にしてもダンスにしても7~8割の割合でステージで誰かが脱ぐのだと長谷川さんも松本さんも口を揃えていた。イギリスではそんなことはなかったが、とにかくドイツとオーストリアでは高い確率で脱ぐ。だからそれはそれで、見ているうちに「またかよ」といった食傷気味な気分になってしまうらしい。それはそれで興味深いところはあるので何故なんだろうかと考えてみようかと思うものの、そういえば大学の時の飲み会とかも誰かが脱いだりしていたなということを想い出し、もしも彼らが飲み会のようなテンションで脱いでいるのであれば、そんなことについていちいち考えるのは本当に、じつに馬鹿馬鹿しいことである。
■まあひとつ確実にいえることは、買って済むような衣装ならば僕が作る必要は無い、という事である。Yシャツとかね。

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(03:29 05/15 2008)

May. 07 wed. 『志半ばで寝ます』
新美の廊下
■午前中はずっと「ファッションのマルチチュード展」の本制作のための文章を書く作業をしていたが、これがなかなか全然進まない。ゴールデンウィーク前から書いているが、全然はかどってなくて困っている。一度きちんと頭をそういう方向のモードへ切り換えないといかんな思い、そうするとなると、いくつかの本をもう一度読み直さなければならない。とりあえず『実践カルチュラル・スタディーズ入門』からページを開く。

■昼からオンワード本社のファッション大賞事務局へ。支援の件について話し合いに行った。今回プレゼンテーションした件については、明快なうえにあちら側の意向とも十分に即した内容だったので、概ね望んでいることは叶いそうな気配である。あす東京都との本会議を経て、正式な予算が決定されるそうなので、いよいよ明日以降本格的に活動が開始されると宮原さんは言っていた。全体的には2時間くらい話して色々と聞けて、それでこの「育成支援プログラム」というものについて僕なりに感ずることがあり、まあそういうのは収穫だった。ちなみに前回一回目の面接で僕が率直に要望した内容については、「はっきりと言ってしまえば、他の人と違いすぎるというのもあるし、くくることができないので実質的に無理です。」と言われた。そうですか。

■それから新木場へ。降りてみて気付いたのが、ここには一度降りた記憶があるということ。だけど記憶のあるこの駅前の風景が以前に、いったい何で降りたのかがさっぱり思い出せず、とても歯がゆい気持ちになった。相当にどうでもいいんだけど、そのどうでもよさがまた一段と歯がゆい。あー歯がゆいと、そんな気持ちのまま警官に道を訊ねてしまったのが運の尽き。「名前がはっきりと分からないんですけれど、バンだかボムみたいな場所分かりませんか?」「そんなんじゃ分かるわけないだろ、クイズじゃないんだから。」誰がお前なんかにクイズを出すんだよと、その言動と態度に怒りが込み上げてしまいまして、いけないと思ってあわてて気持ちを落ち着けさせた。たまにいるんだよ、ああいう訳の分からない警官が。でもそれと関係なくやまちゃんを思い出して、やまちゃん頑張れとおもう。

■だめだ。眠くなってしまった。無駄なことばかり書いて本題にたどり着けずにこのまま寝ます。つづく。

(04:25 05/08 2008)

May. 06 tue. 『何を作るのかはまだぜんぜん決まってないのだけれど』
浅草の吾妻橋
■えーっと、群々(ムレ)という集団の衣裳を今度作ることになりました。株式会社アサヒビールの協賛で、アサヒアートスクエア初の試みというコンセプトのもと本公演は来年の3月になるのだけれど、6月に一度リサーチ公演というものをやります。そこで衣裳はシーチングのトアルという形で参加します。公演のあとにアフターミーティングを用意していて、そこで作品についての考えなどを検討します。僕は27日の夜の部に参加します。ダンサーたちがいま現在探っているカタチをリサーチ公演でやってみて、それを踏まえて検討を重ね、それがどのように作品として本公演まで進めていかれるのかというプロセスを含めてぜひ見てもらいたいなと思うので、また、アフターミーティングでは見に来てくれた方にも自由に意見や質問を言ってもらえる場になると思うので、なにより、色々な意見を僕自身聞いてみたいので木、金の平日だけどぜひリサーチ公演に足を運んで頂ければ幸いに思います。それまでに衣裳もどのようにして作っていくのかとかもなんとか書いていこうとおもいます。群々の活動状況はこちらから見ることができます。
■それで先日、ダンサーの採寸をしに浅草のアートスクエアに行った。『あたらしい世界』という公演名の通り、彼ら彼女らはいま現在あたらしい世界をみつけるべくあれこれと試行錯誤しながら、言葉も含めて自分たちの身体から発せられるものを探っている。その練習内容がとてもおもしろそうで、どんな服を作ろうかというのがまだ何も決まってないが、その練習から何らかを服にも影響させたいと考えている。そうである以上、もっと見に行かなければいけないのだが、これがいかんせん全然見に行けてない。もっとダンサーのみなさんそれぞれの事も知りたいし、もっと見に行ってそこからいろいろ考えたい。そこから発見する新しい世界が必ずあるだろうから。

■1日(木曜日)は朝から授業のあと、昼からTくんと打ち合わせ、先生と今年10月までの自分のスケジュール打ち合わせ、終了研究の大まかな打ち合わせが立て続けにあり、今年の概要がつかめたわけだが、いくつかのプランが目白押しである。おおまかに分けても5つあって、そのどれもが連動していない。きちんと書いてみると7つあった。今年は絶対にコンテストをやらないようにしなければいけない。コンテストって、うちの学校の場合はとくに、油断しているとうっかり出してしまう。そして入選してしまったがためにそれで失敗している人間も何人か知っている。恐ろしいよコンテストって。でも、多くの人に作品を見てもらうことも無条件に大切だ。作品はやっぱり人に見てもらわなければ意味がないし。己が一番すべき事を見極めることが必要だけど、そのへんの匙加減っていうのはほんとうにむずかしい。

(03:07 05/07 2008)

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