2010年12月

竹内宛メール

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Sep. 14 tue. 『まとまらないなりにパラパラ』
カイト工房のことを書こうとしてみたはいいものの、なにせ1年半も前のことなのでもうほとんど覚えてない。さっぱりと。こまったなと思っていたら、まとまらないままの下書きが残っていた。で、今読んでみるとああそうだったなと、というか、へえそうか、という、もはや他人事に近い趣さえあるが、それにともない忘れていたいくつかのことも思い出され参考になる。やっぱり、いろいろと忘れるものだ。まとまらないなりにでも、それがまとまりとなって考えられるいくつかのことはある。今となって覚えていることといえば、やけに遠かったなということくらいしかない去年の5月のこと。


本厚木からバスに揺られて20分、神奈川工科大学キャンパス内にあるカイト工房を見に行った。そもそもカイト工房自体がいったいなんのことなのだかいまいちよく分からず、以前Tくんからこの建物の構造と図面のことを聞いたときに面白そうだなとおもっていただけなので事前情報もほとんどなく完全にぶらりと行った感があった。神奈川工科大学の略称である「KAIT」と名のつくこの工房は、生徒たちがいろいろなことに挑戦しようという試みを試行錯誤する場のようになっていて、それは授業に関係あったり、あるいは無かったりしてもいいらしく、共有の作業スペースのようになっているらしい建物だった。
全面ガラス張りの平屋構造で、広い空間には無数の細い梁が全体に見受けられる。いちばんの特徴は太い梁は一つも無いという、そのような空間。自分は建築的な構造やそのような視点を持ち合わせていないので、その場でみている限りでは、やけに植物が多いことと、忘れてしまったがクラシックだか環境音楽のようなものが流れていることがこの空間の現実的な快適性・不快適性と深く係わりがありそうで、それがどんなだろうか(べつに違和感はないのだけれど、もしこれらの要素が取り除かれたときのこの空間との関係性についてどうなんだろうなどと)とか想像してみたり、太い梁が無いので室内全体の見渡しは良いが、ぎゃくに、こんなにたくさんの梁が本当に必要なのだろうか、いったいこの強度というものが、複数階構造になっていればまだしも、いかんせん平屋なだけに分かりづらいぞ、とか、でもこうやって全体を見渡して見てみると、これらの細い梁が空間を自由に区切ったり繋げたり出来る見立ての自由さ、そういう曖昧性を担っているな、など、そんなことを思ったくらいで、それとは別にまた「おたく」的な服装をした人が多いことに吃驚して、揃いも揃って共通項として感じるこの「おたく」的なるものとは一体なんなんだろうと思い、たとえばその履いている率の高い「真っ黒のハイテクのようなスニーカー」に行き着く経緯というのは、いったいなにを示唆しているものなのか。それは選び取られているものなのか、あるいは無自覚なもの(手に取り易い、たとえば地元の安く売られている場所で多く売られている率が多い品物)なのか。服装のファッションについて考えるとき、そのファッション性自体を帯びることが出来えなかった物たちについて眼差しを向けることは、翻ってファッション性を帯びた物が持つファッションというものの価値についてあらためて考えてみることが出来ることもあり、そいうことにだんだんと興味が湧いてきてしまい、まじまじと学生の人たちを眺めてしまった。
この建物だが、あとになって撮った写真を眺めているうちにだんだんと気になることがあったのだ、これは石上純也が設計したものだった。
KAIT工房の空間の話に戻るがもうひとつ、表象においていくつかの類似性から群々(先日(※もはや先日ですらない)アサヒアートスクエアで行われた「あたらしい世界」という公演)の舞台美術のことが思い出され、そのことでとくに思ったことがそこに在る何かの為に使う道具だったり何かの為に必要な物体の要素についてだった。カイト工房に置いてある或いは設置されているたとえばそれらの道具は、ひどく具体的な形をしているがいったい何の為に使われるものか見当がつかない、曖昧なものが具体的な形を帯びてそこに置いあり、それらの幾つかが妙な関係性を作り出しており、不安定な要素を帯びていた。子供の頃、いまいち存在の把握できないお化けのようなものよりも、急に奇声を発する人の方が恐ろしく見えた。あたらしい世界を構築することにおいて、去年の夏に観たイデビアンクルーの「排気口」は成功していた。その要因はとくに、ダンスと軽快な音楽と明確な衣裳の間に生じるクレバスにあったように思う。
と、ここで終わっていた。もう少し書いておいてほしかった。イデビアンのことを書こうとしているが、その公演はもはや2年も前に遡らなければならないので今となっては困難を極める。その先を読みたかったが、仕方がない。なにも無いよりかはましだ。足してもいいが、あえてここは止めておき、また思い出せば後日補足しよう。
ちなみにカイト工房については、見て受けた印象よりもそのあとに『ちいさなまとまりから建築について考えたこと』を読んだ方が、石上純也の仕事それについて考えるうえで明確にみえてくる物があった。


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(23:18 09/14 2010)

Sep. 00---. 『内藤礼の』

とても良い展覧会だった。



(10:05 09/02 2010)

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